1995年にJリーグ「ベルマーレ平塚」に入団すると、1996年には、アトランタオリンピックに最年少で日本代表に選出され、その後も、イタリアセリエAやワールドカップなどで活躍した、中田英寿(なかた ひでとし)さんは、
小学時代からサッカーの才能を発揮し、中学時代には、U-15(15歳以下日本代表)に選抜され、高校時代には、U-16アジアユースに選抜され、U-17世界選手権、U-19アジアユース、ワールドユースには全て「飛び級」で出場しているのですが、中学時代からコーチに意見し、受け入れられていたといいます。
今回は、そんな中田英寿さんの生い立ち(幼少期から「ベルマーレ平塚」入団まで)をご紹介します。
中田英寿のプロフィール
中田英寿さんは、1977年1月22日生まれ、
山梨県甲府市の出身、
身長175センチ、
体重72キロ、
血液型はO型、
学歴は、
甲府市立北新小学校
⇒甲府市立甲府北中学校
⇒山梨県立韮崎高等学校卒業
趣味(兼仕事)は、旅、
ちなみに、中田英寿は本名で、愛称は「ヒデ」です。
中田英寿は小学時代にすでにサッカーを俯瞰的に見ることができていた
中田英寿さんは、小学3年生(8歳)の時、お兄さんの影響で「北新サッカースポーツ少年団」に入団し、サッカーを始めると、「北新サッカースポーツ少年団」は、土日だけではなく、平日の早朝にも練習を行う強豪クラブだったそうですが、決して練習を休まなかったそうです。
その結果、中田英寿さんは、みるみるうちに才能を開花させ、小学生の中では群を抜くレベルの選手に成長したそうで、小学生にもかかわらず、敵、味方、ボールがどこに飛んでくるのか、後ろを振り向かなくてもすべてが見えていたそうで、すでにサッカーを俯瞰(ふかん)的に見ることができたのだそうです。
また、練習に対する態度や理解力は、並の小学生ではとてもマネできないほどの集中力を持っていたそうです。
(中田英寿さんは、すでに小学生の時に完璧だったため、その後のサッカー人生において、小学生の自分が最大のライバルであり、小学生の時の完璧なプレーを目指していたと言われています)
中田英寿は小学時代は「キャプテン翼」に影響を受けていた
ただ、中田英寿さんは、小学生時代、サッカーに憧れることはなかったそうで、その代わりに、日本のためにワールドカップで優勝することを夢見る「キャプテン翼」に影響を受けたそうです。
中田英寿は中学時代に不思議な練習をしてサッカー仲間を驚かせていた
そんな中田英寿さんは、中学時代、不思議な練習をして、サッカー仲間を驚かせたことがあったといいます。
そのサッカー仲間によると、ある時、中田英寿さんが、学校のグラウンドで、一人で何回も同じような強さでボールを蹴っていたことから、何の練習をしているのかと尋ねたところ、
中田英寿さんは、
サッカーのボールって、足の5本の指で同時に蹴るように思うけど、絶対に違うんだよな。蹴る指によってボールの速さや回転の方向が違うんだ。
だから、足の親指から、人差し指、中指、薬指、小指まで、5本の指で、それぞれ蹴ってみようと思ってるんだよ。不思議なもんで、5本の指のそれぞれで蹴ると速さや角度が変わるから、そういうのを覚えておかないと、これからサッカーをやっていくのに、正確なパスが思ったところに蹴れないから
と、答えたそうで、
そのサッカー仲間は、そこまで考えたことがなかったため、ただただ、驚いたのだそうです。
中田英寿は中学時代に試合に負け罰走50本を命じたコーチに納得できないと一緒に罰走させていた
また、中田英寿さんは、中学時代、ある試合でチームが大敗し、すっかり頭に血がのぼった、コーチの皆川新一さんに、罰としてダッシュ50本を命じられたことがあったそうですが、
中田英寿さんは、
皆川さんは怒ってるけど、これって俺らだけの責任?皆川さんだって責任ありますよね
走る理由が分からない。オレたちだけが走らなければならないのは納得できない。皆川さんも一緒に走ってくれたらオレも走る
と、反論したそうで、
なんと、コーチの皆川新一さんも一緒に走らせたといいます。
ただ、この一言で皆川新一さんの指導者人生は大きく変わったそうで、皆川新一さんは、その後、ドイツへ渡って指導者としての研鑽を積み、帰国後にジュニアユース以下のクラブチームを立ち上げているのですが、
皆川新一さんは、この時のことを、
生意気だと思わなかった自分がいるっていうのはあるんですね。普通だったら、もしかしたらそこにかぶせるように、ガツンと怒っちゃうみたいなことになったかもしれない。
でもそれをさせなかった、生意気だって思わせなかった。ちょっと待てよ、俺が変なのか?みたいなことを思わせた彼がいるっていう
私が、ふざけたことを言うなと殴りつけていたら、果たして中田英寿という個性は、世界に羽ばたくことができたでしょうか。そう思うと、私は時々ぞっとすることがあるのです。
などと、語っています。
中田英寿は中学時代U-15(15歳以下日本代表)に選抜されていた
また、中田英寿さんは、中学2年生の時には、山梨県選抜と関東選抜に選ばれ、中学3年生の時にはU-15(15歳以下日本代表)にも選出されているのですが、
この時、中田英寿さんを指導していた中学の監督は、技術面から見て、中田英寿さんが選ばれることはないだろうと考えていたため、スタッフに選考理由を尋ねると、
スタッフは、
世界で戦うには、少しばかりのテクニックよりもフィジカル面の強さの方が大切。技術面では中田君より上の選手はたくさんいるが、フィジカル面の強さでは、彼はいいものを持っている。そこを評価した
と、答えたといいます。
中田英寿は、県内有数の強豪校で進学校である山梨県立韮崎高校に一般入試で合格していた
中田英寿さんは、高校進学の際には、多くの強豪校から勧誘があったそうですが、県内有数の強豪校であり、進学校でもある、山梨県立韮崎高校に進学しています。
ちなみに、特別枠で入試を受けずに入学することも可能だったそうですが、中田英寿さんは、あえて一般枠で入試を受け、見事、合格したのだそうです。
中田英寿は高校時代はU-16アジアユース以降、全ての年代で「飛び級」で日本代表に選出されていた
そんな中田英寿さんは、高校時代には、U-16アジアユースの日本代表に選出されているのですが、
以降、
- 1993年(16歳)には、「U-17アジアユース」(ベスト8)
- 1994年(17歳)には、「U-19アジアユース」
- 1995年(18歳)には、「ワールドユース」(ベスト8)
と、すべての年代で、「飛び級」で日本代表に選出されて大会に出場しており、
高校2年生の時には、「第72回 全国高等学校サッカー選手権大会」にも出場しています。
「第72回 全国高等学校サッカー選手権大会」より。
中田英寿は高校時代から監督に練習メニューを進言し受け入れられていた
ちなみに、中田英寿さんは、高校時代、練習方法も自分なりに考え出し、確立していたそうで、ある時、試合の終わった翌日、監督がでウエイトトレーニングを重視する練習を指示したことがあったそうですが、
中田英寿さんが、監督に、
ウエイトしても体によくないですよ。もっとリズミカルに体調を整える練習をしたほうがいいと思うんです
と、正面からはっきりと進言し、その理由について、いろいろと説明すると、
監督も、
わかった。じゃそうしようか
と、練習メニューを変更したそうで、
その様子を見ていた高校時代のチームメイトは、
もうそのとき監督さんとやり合っているヒデは、選手というよりは、監督と対等に話しているサッカー人っていう感じでしたね
と、語っています。
中田英寿は高校時代、Jリーグ11クラブから勧誘されていた
そんな中田英寿さんは、高校時代、当時のJリーグに加盟する全12クラブのうち、「ヴェルディ川崎」を除く11クラブから勧誘があったそうで、
入団希望クラブを「アントラーズ」「フリューゲルス」「ベルマーレ」「マリノス」に絞ると、アントラーズは既に見学していたため、残り3クラブを1クラブあたり3日間費やして見てみたいと申し出たそうですが、
(つまり、就職活動として9日間の休みが欲しいということ)
中田英寿さんは、新藤コーチに、
1チームの練習を1日ぐらい見たって、実際に首脳陣がどういう考えを持っているか、またそのチームが、どういったチーム構成になっているかということもわからないでしょ。
サッカーの練習は、プロの場合3日間でワンクールと聞いています。Jリーグの場合は、土曜日とか日曜日に試合がありますから、月曜日は上がり(休日)。すると、練習は火、水、木です。だから1週間に3日ずつ、3週間休ませてほしいんです
と、1チームあたり3日間という理由を説明したといいます。
中田英寿は18歳の時にベルマーレ平塚(現在の湘南ベルマーレ)に加入
こうして、1995年、18歳の時、ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に加入した中田英寿さんは、入団してすぐにJリーグデビューを果たすほか、ワールドユースにも出場して、チリ戦、スペイン戦でゴールを決めるなど、3試合で2得点を挙げる活躍で日本初のグループリーグ突破に大きく貢献したのでした。
「【画像】中田英寿の若い頃からの活躍や経歴を時系列まとめ!」に続く
国際Aマッチ通算77試合出場し、11得点を挙げる活躍で、アジア史上最高のサッカー選手の1人と称され、1990年代後半から2000年代前半にかけて世界を代表するサッカー選手の1人とも称された、中田英寿(なかた ひでとし)さ …