人気司会者としてバラエティ番組などで活躍し、テレビでは見ない日がないほど人気絶頂だった1993年、胃ガンと診断され、この年(1993年)の12月25日、スキルス(進行)胃ガンにより他界した、逸見政孝(いつみ まさたか)さん。
今回は、そんな逸見政孝さんが、スキルス(進行)胃ガンと診断されるまでの経緯、スキルス(進行)胃ガンと診断された後の治療、壮絶だったという闘病生活についてご紹介します。
「【画像】逸見政孝の若い頃からの活躍や経歴を時系列でまとめ!」からの続き
逸見政孝は前田外科病院で初期の胃ガンと診断されていた
逸見政孝さんは、1993年1月18日、みぞおちの辺りに痛みを訴え、前田外科病院(現・赤坂見附前田病院)に、年に1度の定期健診も兼ねて受診したそうです。
すると、その際、担当医から、胃ガンと診断されたそうで、逸見政孝さんと奥さんは大きなショックを受けたそうですが、
担当医は、
あくまでも初期のガンですから、手術すればすぐに完治しますよ
と、笑顔で言ったそうです。
(逸見政孝さんには、2歳年下の弟・憲治さんがいたのですが、憲治さんは、1980年、スキルス胃ガンで32歳の若さで他界していたことから、逸見政孝さんは、人一倍ガンに対して気をつけており、年1回の検診も欠かさず受診していたそうです)
逸見政孝は実際には初期の胃ガンではなく余命5年だった
こうして、逸見政孝さんは、それから1週間後の1月25日に入院すると、2月4日に、胃の4分の3、周囲のリンパ節、腹膜の転移病巣を切除する手術(3時間)を受けたのですが・・・
逸見政孝さん本人には、胃の3分の2を取り除いたと伝えられただけだったそうで、
前田昭二院長は、奥さんにだけ、
ご主人の病状は、実際は初期のガンではなかった。ギリギリの所ですべてのガン細胞を取り除いたんですが、残念ながら5年先の生存率はゼロに近いでしょう
と、余命宣告をしたのだそうです。
(この手術の時点で、すでにガンが胃に近接する腹膜にまで転移していたそうです)
逸見政孝は退院した翌日に仕事復帰し、治療を受けながら仕事を続けていた
そんな中、逸見政孝さんは、手術から1ヶ月後の1993年2月25日に退院すると、翌日の2月26日には、「夜も一生けんめい。」の収録で早くも仕事復帰しているのですが、
退院後も抗ガン剤投薬や前田外科病院への検査通院をしながら、仕事を続けたそうです。
(当初、逸見政孝さんは、周囲に迷惑をかけたくないとの思いから、病名を「穿孔性十二指腸潰瘍」と公表していたそうです)
逸見政孝は手術跡がケロイド状に膨れ始めていた
しかし、1993年5月下旬、メスを入れた手術痕の線上がケロイド状に膨れ始めたそうで、
担当医からは、
通常、手術後に起こる症状であるから心配ない
と、言われたそうですが、
その突起物が次第に大きくなり、やがて、服を着る時に邪魔になるほどの大きさになっていったそうです。
逸見政孝は突起物を除去するために2度目の手術を受けるもガンはすでに腹腔全体に広がっていた
それでも、逸見政孝さんは、スケジュールの都合で、すぐに精密検査を受けず、1993年8月12日、夏休みの最中に、2度目の手術を受けたそうですが、
この時には、ガンはすでに腹腔全体に広がり、もはや、手のつけようがない状態にまで進行していたそうです。
逸見政孝にはガン再発について一切告知されていなかった
しかし、逸見政孝さんには、ガンの再発は一切、知らされなかったそうで、奥さんが、執刀医に、ガン再発を告知するように依頼するも、執刀医は、逸見政孝さんとの信頼関係が崩れることになるため告知しないと断固拒否したのだそうです。
実は、逸見政孝さんは、前田外科病院に全幅の信頼を置いており、奥さんや、所属事務所「三木プロダクション」の三木治社長ら周りの人から、何度も別の病院での診察を勧められても、全く聞き入れなかったのだそうです。
(また、この時期、逸見政孝さんは、レギュラー番組を週5本(「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」「夜も一生けんめい。」「たけし・逸見の平成教育委員会」「いつみても波瀾万丈」「逸見のその時何が!」)も抱え、極めて多忙な日々を送っていたことから、転院する時間がなかったのかもしれません)
逸見政孝は前田昭二院長の態度に次第に不信感を抱くようになり、東京女子医科大学病院に転院していた
ただ、逸見政孝さんが、再手術にあたり、直接、前田昭二院長に、
執刀をしてくれますね?
と、尋ねたところ、
前田昭二院長は、笑みを浮かべながら、
丁度その頃、僕は夏休みに入っているんだよなあ
と、まさかの返答をしたほか、
前田昭二院長から勧められていたアメリカでの民間療法も直前で取り止めになっていたそうで、
さすがの逸見政孝さんも、前田昭二院長に不信感を抱くようになったそうで、奥さんや三木治社長からの勧告もあり、1993年9月3日、(収録前の午前中に)ようやく東京女子医科大学病院を訪れたのだそうです。
(奥さんは、土下座して別の病院を受診するように懇願したといいます)
逸見政孝は東京女子医科大学病院で初めてガンの再発を宣告されていた
そして、逸見政孝さんは、この時、初めてガンの再発を宣告され、
医師団から、触診の際に、
何故ここまで放っておいたのですか!?
と、非常に厳しい口調で叱られ、厳しい現状を告げられたそうで、
逸見政孝さんは、東京女子医科大学病院での手術を決意したのだそうです。
(しかし、逸見政孝さんは、その後も、普段通り、仕事をこなしていたそうです)
逸見政孝は緊急記者会見を開き自らスキルス(進行)胃ガンであることを初めて公の場で告白した
こうして、逸見政孝さんは、1993年9月6日午後3時、緊急記者会見を開くと、当初、嘘の病名を公表したことを謝罪しつつ、
私が今、侵されている病気の名前、病名は、ガンです。
と、自ら、スキルス(進行)胃ガンであることを、初めて公の場で告白したのでした。
(この記者会見の様子は、各局のワイドショーで生中継されました)
1993年9月6日午後3時に緊急記者会見を開き、進行胃ガンであることを告白した逸見政孝さん。
逸見政孝の手術は13時間に及ぶも術後の経過は順調だった
そして、1993年9月7日には東京女子医科大学病院に入院し、本格的な闘病生活に入ると、9月16日には、東京女子医科大学病院で消化器外科の「ゴッドハンド」と呼ばれた教授らによって数キロの臓器を摘出する13時間にも及ぶ大手術を受けたそうで、
手術後は、歩行訓練をしたり、大好きなたこ焼きを食べるなど、経過は良好で、10月1日、長男の太郎さんが留学先のボストンから一時帰国し、病室に見舞いに訪れた際には、その様子が週刊誌などのメディアで報道されるなど、順調に回復していると思われたのですが…
逸見政孝さんと長男の太郎さん。
逸見政孝は腸閉塞でみるみる衰弱する中、抗ガン剤の治療で意識が朦朧となるなど病状が悪化していた
逸見政孝さんは、1993年10月23日、突然激しい腹痛を起こし、食べ物を嘔吐したそうで、検査の結果、腸閉塞と判明したのですが、これにより、普通食が禁止の絶対安静となって、絶食状態を余儀なくされ、高栄養の点滴がつけられたのだそうです。
(この日は、一時帰宅日だったそうですが急遽中止となったそうです)
すると、逸見政孝さんはどんどん衰弱していったそうですが、そんな中、11月上旬からは、抗癌剤の投与が開始されたそうで、激しい吐き気などの副作用で意識が朦朧(もうろう)となり、うわ言を発するなど、病状は悪化したそうです。
(副作用の影響で、表情豊かだった時の逸見政孝さんとは、程遠い状態になってしまったそうです)
ちなみに、長男の太郎さんによると、11月に医師から、
年内もたないかもしれない
と、家族に告げられたそうですが、
そのことを知らない逸見政孝さんは、「治るのかね?」と言った表情で、ベッドで天井をボーッと見つめていたそうです。
逸見政孝は再検査で腸にガンが転移していることが判明していた
そんな中、1993年12月16日には、再検査で腸にもガンが転移していることが判明。
ただ、主治医からは、家族に、
ご主人の体に再びメスを入れる事はこれ以上不可能。残念な話ですが、年を越せるかは厳しい状況です
と、宣告されたそうで、
12月21日に見舞いに訪れていたという長男の太郎さんは、その頃の逸見政孝さんについて、
21日に見舞った時には、父はすでにモルヒネで朦朧としていて、話せる状態ではありませんでした。
ところが、病床で突然、笑顔を作って拍手をして、番組のオープニングを始めるんです。そうかと思えば、スタッフのプロデューサーさんやディレクターさんの名を呼んだりもする。常に仕事に復帰しようという意志がありました。
モルヒネで意識が朦朧とするなか、寝たと思ったら突然笑顔で『平成教育委員会』のオープニングの動きをしたり、「スタッフを呼べ」と言い出したり。
むくっと起きて大好きなポテトチップスを食べようとしたこともありました。「早く仕事に復帰したい」との執念をものすごく感じました。
などと、語っています。
逸見政孝は末期のスキルス胃ガン・再発転移によるガン性悪液質で死去
そして、1993年12月24日、ついに、逸見政孝さんは、意識不明の危篤状態に陥ると、翌12月25日午後0時47分、家族らが見守る中、末期のスキルス胃ガン・再発転移によるガン性悪液質のため、東京女子医科大学病院で、48歳の若さで他界されたのでした。
ちなみに、逸見政孝さんと親しかったという、アナウンサーの岩佐徹さんは、逸見政孝さんのあまりにも早すぎる死を悼みつつ、
(逸見政孝さんは)顔と名前を売りたい、人気者になりたいという気持ちを隠しませんでした。
あまりにも見え見えでむしろ“あっぱれ”だと思いながら見ていました。
ただでさえ忙しいのに、月‐金でプレシャーのかかるニュース番組を終えた週末になると、土・日、土・日と契約しているホテルで披露宴の司会をしていました。それほど有名ではなかった彼は7,8万円の安いギャラの中からかなりのマージンを取られながら、ほぼ毎週、このバイトに精を出していたのです。
それだけが原因ではないでしょうが、数ヶ月で体を壊しました。
のちに、有名人同士の披露宴の司会をすれば、恐らく数百万円のギャラを手にしたに違いない“大スター”になったとは言え、このころのハードワークが早すぎる死を招いた可能性もあると思えば、勘定が合いません。
今 思い返すと痛ましい限りです。
と、語っています。
「逸見政孝は日航機墜落事故(123便)を奇跡的に免れていた!」に続く
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