1961年に中日ドラゴンズに入団し、1年目から35勝19敗、防御率1.70の成績で、最多勝、最優秀防御率、新人王を獲得すると、2年目も30勝17敗で2年連続最多投手となり、連日の登板から「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語まで生まれた、権藤博(ごんどう ひろし)さん。

そんな権藤博さんは、小学生の時に近所の子どもたちと遊びで野球を始めると、中学生の時に本格的に野球を始めたそうですが、高校進学後は、お母さんに勉強するように言われ、野球部に入部した時には既に夏になっていたそうです。

それでも、高校2年生の秋、内野手から投手に転向すると、プロから注目され、高校3年生の夏には、西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)の練習に参加したといいます。

今回は、権藤博さんの、生い立ち(幼少期から高校時代まで)をご紹介します。

権藤博

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権藤博のプロフィール

権藤博さんは、1938年12月2日生まれ、
佐賀県鳥栖市出の出身、

身長177センチ、
体重73キロ、

血液型はA型、

学歴は、
鳥栖中学校
⇒佐賀県立鳥栖高校卒業

趣味は、ゴルフ、

ちなみに、権藤博は本名です。

権藤博は小学3年生の時に父親が病死し母親に女手一つで育てられていた

権藤博さんは、4人姉弟(姉が3人)の末っ子として誕生すると、小学3年生の時に、お父さんの樹(しげる)さんが病気で他界したそうで、

これをきかっけに、権藤博さんは、お母さん、お姉さんたちと、三田川村(現佐賀県吉野ケ里町)から佐賀県鳥栖市に移り住み、お母さんに女手一つで育てられたそうです。

権藤博は小学生の時に野球を遊びで始めると、中学生の時に本格的に始めていた

権藤博さんは、終戦後の物のない時代、道端の石に毛糸を巻き、布でくるんだものをボールに見立てて、稲刈り後の田んぼで、近所の友達と野球をして遊ぶようになったそうで

(野球は唯一の娯楽だったそうです)

鳥栖中学校進学後に、本格的に野球を始めたそうです。

権藤博は高校1年生の夏に野球部に入部していた

ただ、鳥栖高等学校に進学すると、お母さんに、

学校に行くんだから勉強しなさい

と言われたため、すぐには野球部に入らなかったそうです。

それでも、権藤博さんは、夏には、野球しかないと野球部に入部したそうです。

権藤博は高校2年生の秋に内野手から投手に転向していた

そんな権藤博さんは、当初は内野手だったそうですが、高校2年生の秋、(当時としては)身長1メートル75センチと背が高く、肩が強いことを、監督に見込まれ、投手への転向を言い渡されたそうで、

1956年、高校3年生の夏には、甲子園佐賀大会で準決勝まで進むのですが、ここで佐賀商に負け、残念ながら甲子園出場は果たせなかったそうです。

権藤博
高校時代の権藤博さん。

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権藤博は高校3年生の夏には西鉄ライオンズ(現・西武)の練習に参加していた

ただ、甲子園出場は果たせなかったものの、権藤博さんの活躍はプロから注目されたそうで、高校3年生の夏には、西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)の練習に参加したのだそうです。

「権藤博の若い頃は?社会人(ブリヂストンタイヤ)時代を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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