1951年、大学在学中に、「新東宝スターレット」の第1期生として芸能界デビューすると、瞬く間に人気を博し、以降、東宝のスター俳優として活躍するかたわら、司会業でも活躍した、高島忠夫(たかしま ただお)さん。
そんな高島忠夫さんは、先祖代々・大地主の家庭で、何不自由なく育ったそうで、高校時代には、ジャズに夢中になったことから、進駐軍のキャンプを回り、ジャズを演奏する毎日を送っていたといいます。
今回は、高島忠夫さんの、生い立ち(幼少期)から大学時代までをご紹介します。
高島忠夫のプロフィール
高島忠夫さんは、1930年7月27日生まれ、
兵庫県武庫郡御影町(現・神戸市東灘区御影)の出身、
身長181センチ、
血液型はO型、
学歴は、
神戸一中(現・兵庫県立神戸高等学校)
⇒関西学院高等部に水泳推薦で編入
⇒関西学院大学中退
趣味は、版画 落語観賞 ボクシング観戦、
ちなみに、本名は、「髙嶋忠夫」(漢字違いで、読み方は同じ)で、
2019年6月26日、88歳で亡くなっています。
高島忠夫は幼い頃は有閑階級の家庭で何不自由なく育っていた
高島忠夫さんは、琵琶師匠(自称)のお父さん・信夫さんのもと、4人姉弟の長男として誕生すると、おじいさんは大地主で不動産収入があったことから、有閑階級の家庭で、何不自由なく育てられたそうです。
ちなみに、お父さんは、おじいさんにかわいがられ、
信夫、おまえはここにいてわしの後を継げ
と、言われて育てられたため、生涯、職に就くことはなかったそうで、
よく、
わしが子供ん時は阪神の御影駅から全部、自分の家の土地を踏んで帰れたんやで
と、言っていたといいます。
(先祖が神戸の御影の土地を買い占めたのだそうです)
高島忠夫は中学時代は勤労奉仕として軍需工場で働いていた
さておき、高島忠夫さんは、成績優秀で、小学校卒業後は、地元の名門・神戸一中(現・神戸高等学校)に進学し、水泳部に所属していたそうですが、
ちょうど、太平洋戦争の真っ只中だったため、勤労奉仕として、高射砲の陣地作りに駆り出され、軍需工場でも働いたそうです。
高島忠夫は高校時代はジャズに夢中になり進駐軍のキャンプ巡りをしていた
高島忠夫さんは、戦後、友達が持っていたギターが欲しくたまらず、お母さんにねだってギターを買ってもらうと、すぐにジャズに夢中になったそうで、進駐軍のキャンプを回ってジャズの演奏に明け暮れる毎日を送ったそうです。
(入学した神戸一中は、戦後、学校改革により、六・三・三制となり、新制神戸高校に変わったそうです)
高島忠夫は神戸高校を中退し水泳推薦で関西学院高等部に編入
ただ、そんなある日のこと、高島忠夫さんは、学校の先生に呼び出され、
学校にも来んでジャズやってる生徒など、新制の神戸高校の名折れだ!
と、言われたそうで、
高島忠夫さんは、その言い方がシャクにさわり、
ほな、辞めまっさ、僕はジャズで食っていくんやから
と、言い返して、高校を中退。
そのため、お母さんは、高島忠夫さんにギターを与えたことを、随分、後悔していたそうです。
それでも、高島忠夫さんは、翌年には、(今で言う)水泳推薦で関西学院高等部に編入したそうで、引き続き、ジャズは続けていたそうですが、やがて、自分の中では、「ジャズではものにならないだろう」と薄々分かってきたそうです。
高島忠夫は20歳の時に「新東宝スターレット」(ニューフェイス)に合格
そんな高島忠夫さんは、高校卒業後、大学に進学すると、20歳の時、バンド仲間が集まるお汁粉屋の女性店員に、
ターぽん、あんたええ男やさかい、あんたが映画俳優にならなかったら誰がなるね
と、言われたそうで、
すぐにお手洗いの鏡で自分の顔を改めて見てみると、ピカーっと光ったいい男が鏡に映っていたそうで、さっそく、「新東宝スターレット」(ニューフェイス)の募集告知を見て応募すると、見事、合格。
1951年、21歳の時に、大学を中退し、上京したのだそうです。
ちなみに、女性店員の褒(ほ)め言葉は、高島忠夫さんの思い違いだったそうで、
高島忠夫さんは、後に、テレビ番組で、
そのお姉ちゃんは、雨が降ってても、“今日はいい天気ですねえ。いらっしゃいませ、何にしましょう?”って(言うタイプの人で)、おあいそやった。
あの辺一帯のやつは、あのぜんざい屋に行ったやつは、みんな役者にならなかった。みんな分かってるから、ならない。それを君(自分)はバカだったから、本気にして
と、語っています(笑)
「【画像】高島忠夫の若い頃からの活躍や経歴を時系列でまとめ!」に続く
1951年、新東宝のニューフェイスとして芸能界入りすると、翌年の1952年には、「恋の応援団長」で映画デビューし、以降、映画、ドラマ、舞台、ラジオ、司会など幅広く活躍した、高島忠夫(たかしま ただお)さん。 今回は、そん …