1950年代に声優業をスタートすると、以降、「銀河鉄道999」(鉄郎役)、「ゲゲゲの鬼太郎」(鬼太郎役)、「ドラゴンボール」(孫悟空、孫悟飯、孫悟天役)などの声の出演で人気を博した、野沢雅子(のざわ まさこ)さん。

そんな野沢雅子さんは、3歳の時に子役として映画に出演するようになると、小学3年生の時には将来は映画女優になろうと決めていたそうですが、中学入学後は映画がおもしろくなくなったことから、舞台で活動するようになり、高校1年生の時には、劇団「東芸」に入団したといいます。

今回は、野沢雅子さんの、生い立ち(幼少期から劇団「東芸」入団まで)をご紹介します。

野沢雅子

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野沢雅子のプロフィール

野沢雅子さんは、1936年10月25日生まれ、
東京府東京市荒川区日暮里(現在の東京都荒川区)の出身、
(群馬県利根郡(現在の沼田市)育ち(小学3年から高校卒業まで))

身長153センチ、

血液型はO型、

学歴は、
群馬県立沼田女子高等学校卒業、

趣味は、スポーツ観戦、

ちなみに、「野沢雅子」は本名で(結婚後は塚田)、愛称はマコさんです。

また、野沢雅子さんはお餅が大好物だそうで、インタビューで、

お餅が大好きで、毎日、365日食べています。一緒にご飯を食べるから、お餅は1日1個ですね。多分、(お餅は)主食だと思います。だから1杯のご飯と同じになるんじゃないかしら(笑)。

おかずとご飯を食べてから、最後に焼いたお餅を食べます。好きなものは最後に食べたいから。

と、語っています。

(お餅はシンプルにお醤油だけで食べ、海苔も巻かないそうです)

野沢雅子が幼い頃はお嬢様として育てられていた

野沢雅子さんは、画家だったお父さんの野沢蓼洲(のざわ りょうしゅう)さんと、大名の娘だったというお母さんのもと、一人っ子として誕生すると、

幼い頃は、娘の野沢雅子さんに着物を着せたかったというお父さんに日本舞踊を習わされるほか、お母さんには、三味線、お茶、お花などを習わされるなど、お嬢様として育てられたそうです。

(ただ、三味線、お茶、お花などは、全然ダメだったそうです)

野沢雅子が幼い頃は活発でお転婆な女の子だった

ただ、野沢雅子さん自身の性格は男勝りで、お人形遊びやおままごとよりも、鉄砲や刀の方が好きだったそうで、男の子の中に一人混じって、原っぱでチャンバラばかりしているような活発でお転婆な女の子だったそうです。

野沢雅子は小学3年生~高校卒業まで疎開先の群馬に定住していた

そんな中、1944年、野沢雅子さんが9歳の時(小学3年生の終わり頃)には、太平洋戦争の戦局が悪化し、空襲を避けるため、一家で群馬県沼田市に疎開したそうですが、

お父さんが尾瀬を描いた作品で日展に入選したこともあり、群馬への愛着が深くなったそうで、高校を卒業するまで、そのまま群馬で暮らしたそうです。

野沢雅子は3歳の時から子役で映画に出演し小学3年生の時には将来は映画女優になると決めていた

また、野沢雅子さんは、叔母で松竹の女優だった佐々木清野さんが、姪っ子である野沢雅子さんに自身の跡(映画女優)を継がせたいと思っていたことから、3歳の時から、子役として映画に出演するようになったそうで、小学3年生の時には、将来は映画女優になると決めていたといいます。

(映画デビュー作については、タイトルも覚えていないそうです)

野沢雅子は高校1年生の時に劇団「東芸」に入団していた

ただ、野沢雅子さんは、中学入学後は、映画がおもしろくないと思い始め、舞台がやりたくなって劇団に入ると、学校が休みの時には、東京に出て舞台女優の仕事をするようになったそうで、

高校1年生の時には、叔母で女優の佐々木清野さんにNHKのプロデューサーを紹介してもらい、劇団「東芸」に入団したのだそうです。

(叔母の佐々木清野さんは、野沢雅子さんを映画女優にさせたかったため、野沢雅子さんが舞台にいったことで、当初はケンカになったそうですが、結局は、叔母さんが諦めてくれたのだそうです)

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野沢雅子は10代の頃に「堕胎医」で初舞台を踏むも老婆の役だった

こうして、劇団「東芸」に入団した野沢雅子さんは、「堕胎医」(菊田一夫作)で初舞台を踏んだそうですが、その役柄はというと、80歳ぐらいの老婆の役だったそうで、

主人公の若い娘の役がやりたかった野沢雅子さんは、主人公役だった旗和子さんに直談判したといいます。

「【画像】野沢雅子の若い頃は鬼太郎や鉄郎も!デビューからのキャラや経歴を時系列まとめ!」に続く

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