1959年、日本テレビにアナウンサーとして入社すると、1970年代には、女性解放運動(ウーマン・リブ)もしていた、田原節子(たはら せつこ)さん。

そんな田原節子さんは、プライベートでは、結婚を2回し、離婚を1回しているのですが、2人目の夫は、ジャーナリストの田原総一朗さんです。

今回は、田原節子さんの、前夫、再婚相手の田原総一朗さんとの馴れ初め、結婚後の関係(夫婦仲)、子供についてご紹介します。

田原節子と田原総一朗

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田原節子の前夫(最初の夫)は?

田原節子さんは、1962年、26歳の時に、当時の担当番組のスポンサーの宣伝部の人と結婚したそうです。

(田原節子さんは、結婚前は「古賀節子」(旧姓)でアナウンサーをしていたのですが、この結婚以降、「村上節子」でアナウンサーを続けていました)

ただ、その後、いつ頃からかは不明ですが、その人とは籍を入れたままずっと別居状態になっていたそうで、田原節子さんは、いつ離婚してもいいと思いながらも、そのまま、籍を抜かずにいたそうです。

田原節子と田原総一朗の馴れ初めは?

そんな中、田原節子さんは、1962年、26歳の時に、日本テレビの「奥さま こんにちは」という番組で、構成のアルバイトをしていた田原総一朗さんと知り合うと、意気投合したそうで、交際に発展したのだそうです。

(ただ、田原総一朗さんにも奥さんがいたことから、ダブル不倫の関係となったそうです)

田原節子は53歳の時に田原総一朗と再婚していた

その後、田原節子さんは、1986年、50歳の時、日本テレビを早期退職しているのですが、

  • 会社を辞めて自由になったこと
  • 別居中の夫も交際相手がおり、その女性との間に子供ができていたそうですが、その子供が幼稚園に入園したこと
  • 娘たちが就職し自立したこと

などから、別居中の夫と離婚すると、

(田原総一朗さんの妻がガンで死去した後の)1989年には、田原総一朗さんと再婚したのでした。

田原節子は田原総一朗のマネージャーとして働くようになっていた

ただ、田原節子さんは、当初、田原総一朗さんと再婚するつもりなはなかったそうで、日本テレビを退職後は、やっと自分1人の時間ができると思っていたそうです。

そんな中、田原総一朗さんが体調を崩し、入退院を繰り返すようになったそうで、ある時、仕事の手伝いをしようと、田原総一朗さんの事務所に行くと、なんと、名刺が20年分、ぐちゃぐちゃに溜まっていたことから、思わずその名刺を整理すると、

今度は、(原稿を書いていた)田原総一朗さんから、「エリザベス・テイラーの生年月日はいつだったか調べて」と言われ、当時住んでいた護国寺から池袋の大きな本屋まで行って、本棚の一番上にある映画人物百科のような分厚い本を手に取って読み、頭に記憶して、本屋を出てから急いでメモをして、それから田原総一朗さんに公衆電話から電話して伝える、ということもやるようになったそうで、

(当時はまだインターネットがない時代で、それだけで1時間はかかっていたそうです)

このように、入退院を繰り返す田原総一朗さんをサポートするうち、自分のことをする時間がなくなってしまい、いつの間にか、田原総一朗さんの看護師兼マネージャーになっていたそうで、

そんな中、田原総一朗さんにプロポーズされると、田原総一朗さんの体調を気遣い、このプロポーズを受けたのだそうです。

(2回目のプロポーズだったそうです)

ちなみに、田原節子さんは、

総一朗は、私が総一朗のマネージャーとして仕事をしてきたことを、ものすごく申し訳ながっているの。結婚しないで、私が自由にものを書いていけば、けっこういい線いったよ、と誉めてくれるんだけど。

私はとりあえず、総一朗に惚れ込んじゃったからね。ああいう仕事の仕方は、そうとうスタッフがきっちり抑えないとあぶなっかしくてしょうがない、みたいなところがあって。

と、語っており、

インタビュアーの北原みのりさんに、

看護婦?秘書?それでいいんですか?

と、質問されると、

惚れちゃったからね

と、笑っていたそうです。

田原節子と田原総一朗の結婚後の関係(夫婦仲)は?

そんな田原節子さんは、結婚後も、公私ともに田原総一朗さんのパートナーとして、原稿の添削や「文章の構成がおかしい」などの意見も言うようになるなど、仕事のサポートを続けていたそうで、

結婚後は、男女の関係はなくなったそうですが、それによって、2人の関係が冷えることはなかったのだそうです。

ちなみに、田原総一朗さんは、

2人の間では愛はコミュニケーション、つまりおしゃべり。出会ってから、結婚しても、それは変わりません。

しかも節子はベッドの中でも政治について論争をしかけてくるような女性でしたからね。毎回、最後は僕が根をあげた。女の人のほうが、強いなと思いますよ

最初の女房もそうだし、節子の場合もそうだけど、奥さんに家事洗濯をしてほしくないんですよ。だから、家事は全部、家政婦さんに頼んでいました。

貧しくても、家事洗濯をする役割りではなく、話し合う相手だと思ってるんですよ、女房っていうのは

と、語っており、

おしゃべりや論争がお互いの愛情表現だったそうです。

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田原節子の子供は娘が3人

田原節子さんは、前夫との間に女の子を3人出産しているそうですが、田原節子さんは、娘たちについて、ほとんど明かしていないため、詳細は不明です。

(2人目の夫・田原総一朗さんとの間には子供はいません)

ただ、1964年、28歳の時に出産した次女は、江川綾子さんというそうで、國學院大學を卒業後の1987年から1991年まで広告代理店に勤務し、1993年からは、田原総一朗さんの事務所のスタッフとして勤務しているそうで、2003年、お母さんの田原節子さんと「がんサポート」で対談しています。

田原節子と娘の江川綾子
田原節子さんと娘の江川綾子さん。

ちなみに、江川綾子さんは、お母さんである田原節子さんについて、

何でも手当たり次第に読みたがり、めいっぱい知りたがり、心から出会いを喜び、不条理に対してはとことん怒りまくる。そんなよく笑い、よく怒る、生命力の塊のような面白い人

と、語っています。

(江川綾子さんは、田原節子さんの前夫の子供で、田原節子さんが前夫との別居中も田原節子さんと2人で暮らし、田原節子さんが田原総一朗さんと結婚した後、特別養子縁組で田原総一朗さんの子供(次女)になったと思われます。ちなみに、もともと、田原総一朗さんの長女は敦子さん、次女は眞理さんでしたが、江川綾子さんが特別養子縁組となったことで、江川綾子さんが次女となり、眞理さんが三女になったと思われます)

「田原節子の死因は多臓器不全!ガンで乳房全摘出も脳や骨に転移していた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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