1986年、50歳の時に日本テレビを早期退職し、53歳の時にジャーナリストの田原総一朗さんと再婚すると、その後は、公私ともに田原総一朗さんを支え続けたという、田原節子(たはら せつこ)さんですが、
1998年秋、62歳の時、炎症性乳ガンが判明すると、手術は成功し(乳房を全摘出)、その後、抗ガン剤治療を続けていたそうですが、ガンが脳や骨に転移し、2004年8月13日、多臓器不全により68歳で他界されています。
今回は、そんな田原節子さんのガン闘病の経緯を、夫・田原総一朗さんの視点を交えながらご紹介します。
「田原節子の前夫は?再婚相手・田原総一朗との馴れ初めは?子供は娘が3人!」からの続き
田原節子は炎症性乳ガンと判明し余命半年と宣告されていた
田原節子さんは、1998年秋、夫の田原総一朗さんが日米ジャーナリスト交流会に出席するため、一緒にアメリカ・ワシントンに旅立ったそうですが、その時、胸の張りに気がついたといいます。
ただ、帰国後も、田原節子さんはなかなか病院に行かなかったそうで、田原総一朗さんに促されて、ようやく、港区虎ノ門の病院に行き、検査を受けると・・・
「炎症性乳ガン」という悪性中の悪性のガンが判明したそうで、長く持っても半年と、余命宣告されてしまったのだそうです。
田原節子は本当の病名を告げられていなかった
こうして、田原節子さんは、3ヶ月3クールというヘビーな抗ガン剤治療を開始したそうですが、医師は診断結果を、田原節子さん本人にははっきりと言わず、田原総一朗さんにのみ告げたそうで、
田原総一朗さんも、田原節子さんには、乳ガンであることは伝えたものの、悪性の「炎症性乳ガン」であることは伝えなかったそうです。
(本当の病名を知って、田原節子さんが生きる気力を失うのが怖かったため)
ただ、あまりにも重い治療に、田原節子さんは、
本当の病名を教えて
と、詰め寄ったそうですが、
田原総一朗さんは、決して口を割らなかったのだそうです。
田原節子は余命宣告を隠されていたことを激怒していた
そして、入院から4ヶ月後の1999年、田原節子さんは乳房を全摘出し、腹直筋の一本を移植するという、7時間半に渡る大手術を受け、さらには、(まだリンパ腺にはガンが残っていたため)半年間入院して、抗ガン剤治療を続けたそうですが・・・
田原節子さんは、手術の後、本当の病名「炎症性乳ガン」を知ると、
半年しか生きられないのなら、残された時間を懸命に生きたい
と、激怒したそうで、
田原総一朗さんは懸命に謝ったのだそうです。
田原節子の死因は多臓器不全
そんな田原節子さんは、半年後、ようやく退院したそうですが、大手術をしたにもかかわらず、そのわずか半年後の2000年4月には、ガンが脳に転移し、さらに骨まで転移したそうで、東京女子医科大学病院に入院し、骨の一部を切り取る手術を受けたそうですが、
その後、退院するも病状は悪化し、車椅子の生活を余儀なくされたのだそうです。
それでも、田原節子さんは、生きることを諦めず、ガン患者のシンポジウムに登壇したり、娘と旅行をしたりと、懸命に生きる事を楽しんでいたそうですが・・・
2004年8月13日、多臓器不全により、67歳で他界されたのでした。
ちなみに、田原節子さんがいつ集中治療室に入ってもおかしくない状態だった頃、夫の田原総一朗さんは、サンデー・プロジェクトの取材で、アメリカ、北朝鮮に行き、田原節子さんを看取ることはできなかったそうですが、
(ほとんど会話ができないほど容態が悪化していた)田原節子さんに目と表情で、
(北朝鮮に)行ってきなさい
と、背中を押され、断腸の思いで旅立ち、北朝鮮で田原節子さんの訃報を聞いたのだそうです。
1959年、日本テレビにアナウンサーとして入社し、その後、結婚、出産後も働き続けると、職場で猛反発を受けたという、田原節子(たはら せつこ)さん。 そんな田原節子さんは、これをきっかけに、マスコミ関係で働く女性たちととも …