1964年、映画「女体」で俳優デビューし、1966年には、歌手としてもデビューすると、「やすらぎ」「時には娼婦のように」「酒とバラの日々」が大ヒットし、以降、数多くのテレビドラマ、映画、舞台、CM、バラエティなどに出演し、幅広く活躍している、黒沢年雄(くろさわ としお)さん。
そんな黒沢年雄さんは、幼い頃、お父さんが薄給だったことから貧しい生活を余儀なくされていたそうですが、そんな中、お母さんが咽頭ガンになり、その治療費のため、さらに経済的に苦しくなったそうで、
弟たちを養うため、スターになれば大金を稼げるかもしれないと思い、高校を中退して、働きながら俳優を目指したといいます。
今回は、黒沢年雄さんの、生い立ち(幼少期から東宝オーディション合格まで)をご紹介します。
黒沢年雄のプロフィール
黒沢年雄さんは、1944年2月4日生まれ、
神奈川県横浜市西区の出身、
身長175センチ、
靴のサイズは25.5センチ、
スリーサイズは96-80-93、
血液型はAB型、
学歴は、日本大学高等学校中退、
趣味は、読書、スポーツ(ゴルフ、野球、テニス)、車、旅行、
ちなみに、本名は黒沢年男(読み方同じ)で、「ヒロシ&キーボー」の黒沢博さんは実弟です。
黒沢年雄が幼い頃は貧しかった
黒沢年雄さんは、嘱託社員のボイラーマン(技士)だったお父さんのもと、4人兄弟の長男として誕生するのですが、お父さんのお給料が少なかったため、貧困生活を余儀なくされたそうで、
お母さんは朝早く起きて家族6人の食事を作り、洗濯や掃除をした後、夜遅くまで内職をして家計を助けていたそうです。
黒沢年雄は中学・高校時代は野球に熱中していた
そんな中、黒沢年雄さんは、小学生の頃、巨人の選手(川上哲治さん、青田昇さんら)に憧れて野球選手になる決心をすると、
中学進学後は、野球部に所属し、高校進学後も野球に熱中したそうで、お母さんは、厳しい家計の中からユニフォームやグラブをそろえてくれたそうです。
黒沢年雄は16歳の時に母親を亡くしていた
しかし、黒沢年雄さんが16歳の時には、お母さんが咽頭(いんとう)ガンになったそうで、なぜか、長男の黒沢年雄さんが病院に呼ばれ、
医者に、
お母さんの病気はもう治らない
と、告げられたそうで、
黒沢年雄さんは、目の前が真っ暗になったそうです。
そして、お母さんは、亡くなる前、
年男(本名)、頼むよ
と、長男である黒沢年雄さんに言ったそうですが、それがお母さんの最後の言葉となったのだそうです。
(弟たちは、まだ、14歳、12歳、10歳だったそうです)
ちなみに、黒沢年雄さんは、若くして(40歳で)亡くなったお母さんのことを、
おふくろは横浜から東京に出たこともないし、温泉に行ったことも、うまいものを食ったこともなかった。すべてを子どもたちに注いでくれたんです。それを思うと、いまでも涙が出ます。
と、語っています。
黒沢年雄は高校生の時に家出し悪い仲間と付き合い始めていた
しかし、黒沢年雄さんは、お父さんに「金がない」と言われ、修学旅行にも行けなかったことから、糸の切れた凧(たこ)のようになったそうで、
やけになって、家出をすると、地元の繁華街で悪い仲間と付き合い始め、相手を見つけてはケンカをふっかけていたのだそうです。
(お母さんの病気は、当時、保険がきかず、お父さんは会社からかなりの借金をしていたそうで、以前にも増して生活が大変になっていたそうです)
黒沢年雄は高校時代に弟たちを養うために俳優になる決意をしていた
ただ、黒沢年雄さんは、お母さんの「年男、頼むよ」という最期の言葉が、どこか頭の隅に残っていたそうで、結局、その言葉に引き戻されて家に帰ったのだそうです。
そして、お父さんのお給料だけでは弟たちを食べさせていけなかったことから、自分が働かなければと考えていると、人を笑わせるのが得意だったことや、何より、スターになれば大金を稼げると思ったことから、”俳優”という仕事を思いついたのだそうです。
(とにかく、弟たちにお腹いっぱいご飯を食べさせたいと思ったほか、お風呂のある家に住みたいと思ったそうです)
黒沢年雄は17歳の時に高校を中退して様々な職を転々としていた
とはいえ、俳優養成所に通うお金はなかったことから、
いろんな仕事をして演技に役立てよう
それでチャンスを待とう
と、決心すると、
17歳の時、高校中退し、キャバレーのバンドマン(ドラム)、ボーイ、バーテン、工場作業員、訪問販売セールスマン(寝具、生命保険、自動車、ミシン)、ウェイター、陸送の運転手など、様々なアルバイトをしたそうで、
黒沢年雄さんは、
でも、あの頃はつらいというより、これは運命だと思っていた。結果、あのときにいろんな仕事をしたことが、後の俳優生活にどれだけ役に立ったかしれません。
と、語っています。
黒沢年雄は20歳の時に「東宝映画第4期ニューフェイス」のオーディションに合格していた
こうして黒沢年雄さんは、がむしゃらに働いたそうですが、そのかたわら、映画会社のオーディションも受けると、1964年、20歳の時には、「東宝映画第4期ニューフェイス」のオーディションに、見事、合格。
実は、大映と日活も受験してどちらも合格したそうですが、その中から東宝を選んだのは、東宝が一番大きな会社だったからで、もし俳優がダメでも不動産などいろいろな仕事があるかもしれないと思ったからだそうです。
ちなみに、黒沢年雄さんは、オーディションに受かった理由について、
なぜオーディションに受かったかって? おそらくほかの人とは違うエネルギーがあったんでしょう。当時は家にも帰らず、いつ殴られるか、誰かに刺されるかもわからない毎日だった。だからほかの人と目つきが違ったんでしょう。
オーディションでも普通にやっては受からないとわかっていたからね。「受験番号○○番のクロサワです、と自己紹介して」と試験会場で言われても「そんなの名札見ればわかるじゃないすか」なんて突っ張って言われた通りにしなかった。
面接で女優・新珠三千代さんに質問されたときには「こんなきれいな人に質問されるなんて、恥ずかしい!」って床を転げまわりました。「何やってんだ」って偉い人たちも怒るのを忘れて笑っちゃうよね。そうやってインパクトを残したんです。
と、語っています。
「【画像】黒沢年雄の若い頃は?デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1964年、映画「女体」で俳優デビューすると、1967年には、映画「日本のいちばん長い日」で注目を集め、その後は、東宝のアクションスターとして人気を博し、以降、数多くの映画やテレビドラマに出演するほか、歌手、タレントとし …