1980年、16歳の時に、二代目引田天功を襲名すると、以降、米国、欧州、日本、アジアと、全世界でダイナミックなイリュージョンを繰り広げ、世界のイリュージョニストとして活躍した、プリンセス天功(ぷりんせす てんこう)さん。

そんなプリンセス天功さんは、幼い頃は、「18歳まで生きられない」と言われるほど病弱だったそうですが、「どうせ短い命ならたくさんの人に知ってもらいたい」と、舞台女優を志し、お母さんの従兄弟が社長を務める引田天功(初代)さんの事務所に所属することになったといいます。

今回は、プリンセス天功さんの、幼少期(生い立ち)からアイドル時代までをご紹介します。

プリンセス天功

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プリンセス天功のプロフィール

プリンセス天功さんのプロフィールは非公開なのですが、

新潟県の出身で、1964年生まれだと思われます。

(※1980年に16歳だったという記述があるため)

プリンセス天功は幼い頃は病弱だった

プリンセス天功さんは、生まれた時から体が小さく、しばしば、発熱したり、全身に湿疹(しっしん)が出るなど、満足に外で遊ぶこともできないほど病弱な子供だったそうで、

周囲の人達からは、

成人するまで元気でいるのが難しいのではないか

18歳まで生きられないのではないか

などと噂され、

プリンセス天功さん自身もそのことに薄々気がついていたといいます。

(幼い頃に難病を患い、アメリカの病院で治療を受けて回復したという話も)

プリンセス天功は3歳からモデルとして活動していた

それでも、プリンセス天功さんは、お母さんが洋裁・和裁の先生をしていた関係で、雑誌「装苑」に子供モデルとして出演するなど、3歳からモデルとして活動していたそうで、

10代の頃は、ティーン向けファッション雑誌「プチセブン」「Seventeen」などにもモデルとして出演していたそうです。

プリンセス天功は10代の時に引田天功(初代)の事務所に入っていた

そんな中、プリンセス天功さんは、お母さんに、

18歳までしか生きられないなら、自分の好きなことを存分にやりなさい

と、励まされ、

どうせ短い命ならたくさんの人に知ってもらいたい

と、舞台女優になろうと決心したそうで、

たまたま、お母さんの従兄弟が引田天功(初代)さんの事務所の社長をしていたこともあり、その縁を頼って、故郷・新潟から一人で上京したのだそうです。

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プリンセス天功は14歳頃には「朝風まり」名義でアイドル歌手としてレコードデビューしていた

こうして、1976年、12歳頃、引田天功(初代)さんの事務所に入ったプリンセス天功さんは、当初は、森繁久彌劇団に入って舞台女優を目指す予定だったことから、舞台女優の勉強になるからと、引田天功(初代)さんのアシスタントとして一緒にステージに立っていたそうですが、

ある日のこと、フジテレビのプロデューサーが、

歌って踊ってマジックする子が欲しい。おたくの事務所に可愛い子がいるって聞いたんだけど

と、訪ねて来たそうで、

その後、1978年、14歳頃、マジックを披露しながら歌うアイドル歌手として「朝風まり」名義でレコードデビューすると、

15~16歳の時には、ザ・ドリフターズの「8時だョ!全員集合」に、レギュラーとして毎週出演するようになったのでした。

プリンセス天功

「【画像】プリンセス天功の若い頃は?二代目引田天功襲名から現在までの経歴まとめ!」に続く

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