1942年、戦前の人気女優・桑野通子さんの娘として生まれると、1954年、13歳の時、「緑はるかに」で映画デビューし、以降、お母さん譲りの愛らしい容姿で清純派女優として頭角を現すと、
1960年、19歳の時には、一転、大島渚監督の映画「青春残酷物語」で、体当たりの演技を披露し、たちまち、注目を集めた、桑野みゆき(くわの みゆき)さん。
今回は、そんな桑野みゆきさんの、生い立ち、若い頃(デビュー)から芸能界引退までの出演作品や経歴を時系列でまとめてみました。
桑野みゆきのプロフィール
桑野みゆきさんは、1942年7月17日生まれ、
神奈川県横浜市鶴見区の出身、
本名は、斎藤みゆき(さいとう みゆき)で、
お母さんは、戦前に活躍した人気女優・桑野通子さんです。
ちなみに、桑野みゆきさんのお父さんは斎藤芳朗さん(森永製菓の社員)ですが、お母さんが桑野みゆきさんを身ごもった時、お父さんは妻子ある身だったため、お母さんは未婚の母として桑野みゆきさんを出産し育てたそうです。
幼い頃の桑野みゆきさんとお母さんの桑野通子さん。
桑野みゆきは13歳の時に井上梅次監督作品「緑はるかに」で映画デビュー
桑野みゆきさんは、女優・桑野通子さんの一人娘として誕生するのですが、3歳の時に桑野通子さんが他界し、幼い頃から、女優の道を期待されて育てられたそうで、
1954年、13歳の時には、井上梅次監督作品「緑はるかに」の子役募集に応募すると、見事合格し、映画デビューを果たします。
「お母様に負けない立派な女優になりたい」と語っていた桑野みゆきさん。
桑野みゆきは17歳の時に「野を駈ける少女」など思春期ものに主演し清純派少女スターとして売り出されていた
そんな桑野みゆきさんは、1956年、15歳の時、松竹に移籍すると、1958年、17歳の時には、お母さん譲りの愛らしい容姿から、
映画「野を駈ける少女」などの思春期ものに主演し、清純派少女スターとして売り出されると、たちまち、頭角を現します。
「野を駈ける少女」より。
桑野みゆきは19歳の時に大島渚監督作品「青春残酷物語」で主演を務め体当たりの演技が高く評価されていた
そんな中、一転、1960年、19歳の時には、大島渚監督作品「青春残酷物語」で、主人公・真琴役に抜擢されると、
美人局、堕胎、恐喝、そして、死と破滅に向かって突き進んでいく真琴を体当たりで演じきり、映画は大ヒットを記録。
桑野みゆきさんの演技も高く評価され、見事、清純派の殻を破ることに成功しています。
「青春残酷物語」より。
(この「青春残酷物語」は、”松竹ヌーヴェルヴァーグ”と言われ、映画界に新しいムーブメントをもたらしました)
桑野みゆきは20代の時に「日本の夜と霧」「秋日和」「ローマに咲いた恋」「赤ひげ」ほか100作品を超える映画に出演
その後、桑野みゆきさんは、20代の時には、
- 1960年「日本の夜と霧」
- 1960年「秋日和」
- 1961年「悪の華」
- 1961年「恋とのれん」
「恋とのれん」より。 - 1963年「ローマに咲いた恋」
- 1963年「鏡の中の裸像」
- 1964年「日本脱出」
「日本脱出」より。 - 1964年「恋の片鱗」
- 1965年「大根と人参」
- 1965年「赤ひげ」
- 1966年「命果てる日まで」
- 1967年「バラ色の二人」
- 1967年「堕落する女」※最後の出演作品
ほか、100作品を超える映画に出演しています。
桑野みゆきは25歳の時に結婚し芸能界を引退
そんな桑野みゆきさんですが、1967年、25歳の時には、結婚により、芸能界を引退しています。
桑野みゆきの現在は?夫は?
桑野みゆきさんの結婚相手や現在については情報が一切なく、
その私生活は謎に包まれています。
桑野みゆきさんは、2025年現在、83歳。
ご夫婦で穏やかに暮らされているといいのですが・・・
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