1928年、28歳の時、「仇討流転」で監督デビューすると、以降、知的で明るく、笑いの背後に鋭い風刺を込めた脚本・監督作品を次々と発表し、「國士無双」(1932年)、「赤西蠣太」(1936年)などの映画が高く評価された、伊丹万作(いたみ まんさく)さん。
今回は、そんな伊丹万作さんの、若い頃(デビュー)から他界されるまでの監督作品や経歴、死因をご紹介します。
「伊丹万作の生い立ちは?少年時代から画家を目指すも27歳で脚本家!」からの続き
伊丹万作は28歳の時に「天下太平記」で脚本家デビュー、「仇討流転」で監督デビュー
伊丹万作さんは、1928年、28歳の時、友人で映画監督の伊藤大輔さんの推薦で、脚本家兼助監督として、5月10日設立された片岡千恵蔵プロダクション(千恵プロ)に入社すると、
千恵プロ第1回作品「天下太平記」(稲垣浩監督)で脚本家デビューし、同年11月には、自ら書いた脚本「草鞋」を映画化した「仇討流転」で監督デビューも果たしています。
伊丹万作は28歳の時に脚本「絵本武者修行」「金忠輔」を執筆していた
ただ、伊丹万作さんは、体が弱かったことから、同年(1928年)、病気療養のため松山に帰省すると、そこで、「絵本武者修行」と「金忠輔」の脚本を執筆するも、
「絵本武者修行」は、自身で監督を務める予定だったところ、撮影開始直前に病気が再発し、稲垣浩さんが代わりに監督になっています。
伊丹万作は30歳の時に映画「春風の彼方へ」「源氏小僧出現」「逃げ行く小伝次」を発表
それでも、伊丹万作さんは、1930年、30歳の時には監督に復帰すると、
同年には、
- 「春風の彼方へ」
「春風の彼方へ」 - 「源氏小僧出現」
- 「逃げ行く小伝次」
の3作を発表しています。
伊丹万作は31歳の時に映画「金的力太郎」「花火」を発表
また、1931年4月、31歳の時には、林不忘原作の「刀傷未遂」を「元禄十三年」と改題して脚色しているのですが、またしても、シナリオ改訂中に病床に伏し、稲垣浩さんが代わりに監督をしています。
それでも、伊丹万作さんは、同年には、脚本兼監督作品として「金的力太郎」と「花火」を発表しています。
「花火」より。
伊丹万作は32歳の時に公開された映画「國士無双」が高く評価されていた
そんな伊丹万作さんは、1932年、32歳の時には、伊勢野重任さんの同名小説を原作とする映画「國士無双」(こくしむそう)で監督を務めると、諧謔(かいぎゃく)と風刺に満ちたユーモアが注目されるほか、
これまでの日本映画監督が持っていなかった〈散文精神〉を作品の中に盛り込んだ
と、先駆的な映画表現が高く評価され、
この年のキネマ旬報ベスト・テンで第6位にランクインしています。
「國士無双」より。片岡千恵蔵さん。
伊丹万作は32歳の時に脚本兼監督作品「闇討渡世」を発表するも検閲で大幅にカットされていた
その後、伊丹万作さんは、脚本兼監督作品「闇討渡世(やみうちとせい)」を発表しているのですが、
この作品では、前作「國士無双」の持つ諧謔と風刺の精神を継続し、主人公・平手造酒(片岡千恵蔵さん)の孤独を描くも、検閲により、大幅にカットされてしまったそうです。
伊丹万作は34歳の時に「千恵プロ」を退社し「新興キネマ」に入社していた
また、1933年、33歳の時には、自身初のトーキー(映像と音楽が同期した映画)となる予定だった「江戸ッ子神楽」の撮影を行ったそうですが、その際、片岡千恵蔵さんと意見が衝突し撮影が中止となると、
1934年、34歳の時には、映画「武道大鑑」が、キネマ旬報ベスト・テン第4位にランクインするも、同年、「千恵プロ」を退社し、トーキー専門監督として「新興キネマ」に入社しています。
伊丹万作は36歳の時に発表した「赤西蠣太」が原作者の志賀直哉に大絶賛されていた
そんな伊丹万作さんは、1935年には、「新興キネマ」移籍第1作目で、自身初のトーキーとなる「忠次売出す」を発表すると、
1936年、36歳の時には、志賀直哉氏の短編小説を原作とする、伊達騒動(江戸時代前期に仙台藩・伊達家で起こったお家騒動)を背景に醜男の武士の恋を描いた「赤西蠣太」がキネマ旬報ベスト・テン第5位にランクインするほか、志賀直哉氏本人にも大絶賛されるなど、高い評価を得たのでした。
「赤西蠣太」より。
伊丹万作は36歳の時に日独合作映画「新しき土」で共同監督を務めるも失敗作に終わっていた
また、伊丹万作さんは、同年(1936年)、ドイツのアーノルド・ファンク監督と日独合作映画「新しき土」を協同で脚本・監督しているのですが、
実は、伊丹万作さんは、共同監督に要請された際、
自分の本領はシナリオにあって、監督にはない
と、主張し、固辞したそうですが、聞き入れられず、
しぶしぶ共同監督を務めることになったそうですが、脚本執筆時からアーノルド・ファンク監督とは意見が対立したそうで、
伊丹万作さんは、アーノルド・ファンク監督とは別に作品を撮り、結果、伊丹万作ヴァージョン(英米版)、アーノルド・ファンクヴァージョン(ドイツ版)の2つの異なるヴァージョンが完成しています。
ただ、この作品は、伊丹万作さんにとっては失敗作だったそうで、
伊丹万作さんは、
撮影には二倍の時間と労力を費やし、一年間の精力を意もなく浪費したのである
と、語っています。
(ネット上などで見られる「新しき土」の映像写真は、ほとんどがアーノルド・ファンクヴァージョンによるものだそうです)
伊丹万作は38歳の時に「巨人伝」を発表するも以降病床に伏していた
その後、伊丹万作さんは、1937年には、「権三と助十」を発表すると、同年9月10日には、東宝映画東京撮影所に移籍し、
1938年、38歳の時には、「巨人伝」を発表するのですが、公開後、肺結核を患い、京都にある友人の伊藤大輔さんの邸宅を借りて闘病生活を送ったそうで、
以降、映画雑誌に時評やエッセイを寄稿するかたわら、脚本を執筆する日々を送っていたといいます。
「巨人伝」より。大河内傳次郎さん(左)と原節子さん(右)。
伊丹万作が41歳の時に脚本を執筆した「無法松の一生」は稲垣浩により映画化されていた
ただ、伊丹万作さんの体調はすぐれず、1941年には、病床で「無法松の一生」の脚本を書き上げると、稲垣浩監督により映画化されています。
伊丹万作の死因は?
その後も、伊丹万作さんは、病床で脚本を執筆し続け、1946年6月頃には、田中正造の生涯を描く構想を練っていたそうですが、
病状が悪化し、同年9月21日午後6時30分、友人の伊藤大輔さんと妻子に看取られながら、京都市上京区の自宅で、肺結核により、46歳で他界されています。
ちなみに、伊丹万作さんの辞世の句は、
病臥九年更に一夏を耐へんとす
だったといいます。
伊丹万作の監督兼脚本作品
それでは最後に、伊丹万作さんの、主な監督兼脚本作品、脚本作品、著作をご紹介しましょう。
監督兼脚本作品では、
- 1928年「仇討流転」
- 1928年「続万花地獄 第一篇」
- 1930年「春風の彼方へ」
- 1930年「源氏小僧出現」
- 1930年「逃げ行く小伝次」
- 1931年「御存知源氏小僧」
- 1931年「金的力太郎」
- 1931年「花火」
- 1932年「國士無双」
- 1932年「闇討渡世」
- 1932年「研辰の討たれ」
- 1933年「刺青奇偶」
- 1934年「渡鳥木曾土産」
- 1934年「武道大鑑」
- 1934年「忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇」
- 1935年「忠次売出す」
- 1935年「戦国奇譚 気まぐれ冠者」
- 1936年「赤西蠣太」
- 1937年「新しき土」
- 1937年「故郷」
- 1937年「権三と助十」
- 1938年「巨人傳」
伊丹万作の脚本作品
脚本作品では、
- 1928年「天下太平記」
- 1928年「放浪三昧」
- 1928年「源氏小僧」
- 1929年「絵本武者修業」
- 1931年「元禄十三年」
- 1931年「快侠金忠輔」
- 1936年「牡丹燈籠」
- 1943年「無法松の一生」
- 1948年「手をつなぐ子等」
- 1950年「俺は用心棒」
- 1952年「恋風五十三次」
伊丹万作の著作
著作では、
- 1933年「時代映画の存在理由に就て」
- 1936年「私の活動写真傍観史」
- 1936年「ルネ・クレール私見」
- 1936年「映画界手近の問題」
- 1937年「カメラに関する覚え書」
- 1937年「影画雑記」
- 1938年「人間山中貞雄」
- 1940年「映画の普及力とは」
- 1940年「演技指導論草案」
- 1941年「映画と癩の問題」
- 1943年「静臥雑記」
- 1944年「映画と民族性」
- 1945年「戦争中止を望む」
- 1946年「政治に関する随想」
- 1946年「戦争責任者の問題」
- 1946年「静臥後記」
- 1961年「伊丹万作全集」
- 1971年「伊丹万作エッセイ集」
などを発表しています。
それまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画した、風刺と諧謔、人間味に富んだ、新しいタイプの時代劇を次々と発表すると、1938年、38歳からは闘病生活を送りながらも、精力的に脚本を執筆していたという、伊丹万作(いたみ まん …