1929年、5歳の時、映画「母」で子役デビューすると、以降、子役として数多くの作品に出演し、その目鼻立ちのはっきりした上品な顔立ちや明るく溌剌としたキャラクターが人気を博し、絶大な人気を誇った、高峰秀子(たかみね ひでこ)さん。
今回は、高峰秀子さんの子役時代(13歳~)からアイドル女優時代までの出演映画や経歴を時系列でご紹介します。
「高峰秀子の生い立ちは?幼少期から養女!5歳で子役デビューしていた!」からの続き
高峰秀子は13歳の時に引き抜かれて松竹からP.C.L.に移籍していた
子役として映画界で引っ張りだことなるも、12歳にして、祖父をはじめとする一家9人の大黒柱となっていた中、映画界から逃げ出したいと思うようになっていたという高峰秀子さんは、
この頃、宝塚歌劇団に入団したいと考え、女優の水谷八重子さんに相談すると、水谷八重子さんが、宝塚音楽学校校長の小林一三さんにかけあってくれ、無試験で入学を許可するという返事をもらったそうですが、
(一方、入団について、うやむやになったという話もあるようです)
1937年、13歳の時、P.C.L.企画課に務めていた藤本真澄さんから引き抜き交渉を受けると、これを了承したそうで、同年1月、松竹を退社し、P.C.L.に移籍したそうです。
ちなみに、引き抜きの条件は、月給100円、撮影所近くの家の提供、女学校へ進学させるというものだったそうで、
高峰秀子さんは、同年4月、約束どおり、御茶ノ水の文化学院に入学したのだそうです。
高峰秀子は13歳の時にP.C.L.移籍第1作目「良人の貞操」でヒロインの妹役
そんな高峰秀子さんは、P.C.L.移籍第1作目は、「良人の貞操」に出演し、ヒロインの千葉早智子さん演じる邦子の妹・睦子役を演じています。
「良人の貞操」より。
高峰秀子は14歳の時に「綴方教室」で主演
その後、同年(1937年)9月、P.C.L.は東宝映画となっているのですが、以降も、高峰秀子さんは、数多くの映画に出演し、
1938年、14歳の時には、山本嘉次郎監督作品「綴方教室」で主演を務めると、貧しい生活の中でも明るく元気に生きる少女を生き生きと演じ、人気を博しています。
「綴方教室」
高峰秀子が15歳~16歳の時にはアイドルとしても人気が急上昇していた
そんな高峰秀子さんは、東宝ではますます人気者となり、
1939年、15歳の時には、
- 「美はしき出発」
- 「娘の願ひは唯一つ」
- 「ロッパの頬白先生」
- 「忠臣蔵」
- 「樋口一葉」
- 「われ等が教官」
- 「その前夜」
- 「花つみ日記」
- 「新篇丹下左膳 隻眼の巻」
と、9本もの映画に出演するほか、アイドルとしての人気も高まると、
1940年、16歳の時には、「秀子の応援団長」という、高峰秀子さんの名前を冠した映画まで作られたのでした。
「秀子の応援団長」より。左端が高峰秀子さん。
高峰秀子は15歳の時に杉村春子の演技に大きな影響を受けていた
ちなみに、高峰秀子さんは、この頃、豊田四郎監督作品「小島の春」を観て、ハンセン病患者役を演じた杉村春子さんの演技に大きな感銘を受け、今まで仕方なくやっていたという役者の仕事に本気で取り組もうと決意したそうで、
自伝的エッセイ「わたしの渡世日記」の中で、
私は杉村春子の演技に、雷に打たれたようなショックを受けた
終始うしろ姿を見せながら、カン高いセリフだけで演技する、ニックキ杉村春子の姿が、私の眼に焼きついて離れなかった
人間の背中にも「顔」のあることを私は知った
と、綴っています。
高峰秀子は17歳の時に山本嘉次郎監督作品「馬」で主演
そんな高峰秀子さんは、1941年、17歳の時には、東北の農村を舞台に少女と馬のふれあいを描いた、山本嘉次郎監督作品「馬」で主演を務めると、山形県最上町で長期ロケが行われ、撮影には足掛け3年を費やしたそうですが、
その際、当時、アイドル女優だった高峰秀子さんに、地元のある少年がひと目惚れしていたといいます。
実は、その少年というのは、後のケーシー高峰(本名は門脇貞男)さんだそうで、芸名「ケーシー高峰」の「高峰」は、初恋の人である高峰秀子さんから取ったのだそうです。
「馬」より。
「【画像】高峰秀子の若い頃から引退までの出演ドラマ映画は?死因は?」に続く
1929年、5歳の時、映画「母」で子役デビューすると、以降、長きに渡って女優として活動を続け、1979年、55歳で女優業を引退するまで、300本を超える作品に出演した、高峰秀子(たかみね ひでこ)さん。 今回は、そんな高 …