1957年、18歳の時に、「美川鯛二」名義で歌手デビューするも、1968年、佐川満男さんの「今は幸せかい」を作曲したことをきっかけに作曲家に転身すると、
以降、ザ・ピーナッツの「大阪の女」、ちあきなおみさんの「喝采」、桜田淳子さんの「わたしの青い鳥」、細川たかしさんの「心のこり」「北酒場」など数多くのヒット曲を手掛けた、中村泰士(なかむら たいじ)さん。
そんな中村泰士さんは、高校2年生の時、エルビス・プレスリーやニール・セダカなどのロックンロールに出会うと、たちまち夢中になって、ジャズ喫茶(ライブハウス)に通いつめ、高校を2回も中退したそうで、
その後、18歳の時には、内田裕也さんと佐川満男さんのバンド「ブルージーンズ」にボーカリストとして加入することになったといいます。
今回は、中村泰士さんの、幼少期(生い立ち)から歌手デビュー前までをご紹介します。
中村泰士のプロフィール
中村泰士さんは、1939年5月21日生まれ、
奈良県北葛城郡王寺町の出身、
学歴は、
奈良県立高田高等学校中退
⇒大阪府立和泉高等学校中退
ちなみに、本名は「中村泰士(なかむら たいし)」(読み方違い)だそうで、「中村泰士(なかむら やすし)」「美川鯛二(みかわ たいじ)」という芸名を使っていたこともあったそうです。
中村泰士は6歳の時に歯科医の父親が他界していた
中村泰士さんは、敬虔(けいけん)なクリスチャンの両親のもと、5人きょうだいの末っ子として誕生したそうですが、
6歳の時、歯科医のお父さんが亡くなったそうで、以降は、お母さんが役場に勤めて、中村泰士さんたちを育ててくれたそうです。
中村泰士は中学進学後はブラスバンド部に入部していた
中村泰士さんは、中学進学後、ブラスバンド部に入り、トロンボーン担当となったそうですが、演奏するのは行進曲ばかりだったそうで、
リズムを刻むばかりでつまらなくなり、部室にあったジャズの譜面を見ながら、スタンダードジャズのメロディーをトロンボーンで吹いたり、自宅にあった白鍵(はっけん)が鳴らないオルガンを弾いたりしていたそうです。
中村泰士は高校2年生の時にロックンロールと出会い夢中になっていた
また、高校進学後は、高校にブラスバンド部がなかったことから、担任の先生に頼んでブラスバンド部を作ってもらい、15人のメンバーで活動を始めたそうですが、
(体が大きかった中村泰士さんは、入学当初はラグビー部にスカウトされたそうですが、ラグビー部には入らなかったそうです)
高校2年生の時に、エルビス・プレスリーやニール・セダカなどのロックンロールと出会い、レコードを貸してもらって聴くようになると、たちまち夢中になったそうです。
中村泰士は高校を2回も中退していた
そして、やがては、お兄さんの背広を拝借し、難波や三宮のジャズ喫茶(ライブハウス)通いをするようになると、楽しくて、学校に行かなくなったそうで、
(当時は、ロカビリー全盛の時代で、リーゼントにしてギターケースを持っていれば女の子にモテたそうで、踊ったり、女の子と付き合ったり、と楽しくて仕方がなかったそうです)
ついには、授業日数が足りなくなり、高校2年生で中退となったのだそうです。
それでも、お兄さんが、働いて学費を払ってくれ、岸和田の和泉高校に3年生で編入したそうですが・・・
ここも2ヶ月で中退したのだそうです。
中村泰士は18歳の時に内田裕也と佐川満男のバンド「ブルージーンズ」にボーカリストとして加入していた
そんな中村泰士さんは、18歳の時には、内田裕也さんと佐川満男さんのバンド「ブルージーンズ」にボーカリストとして加入したそうですが、
その後、内田裕也さんと佐川満男さんが別れると、内田裕也さんのバンド「ロックブラザーズ」についていったのだそうです。
中村泰士は19歳の時に「リズムワゴンボーイズ」に加入していた
すると、やがて、山下敬二郎さんのバンド「リズムワゴンボーイズ」のリーダーに、
山下が抜けるから来い
と誘われて、上京し、
以降、「リズムワゴンボーイズ」のメンバーとして、銀座、横浜、新宿、池袋のジャズ喫茶を転々としたのだそうです。
「中村泰士の若い頃は歌手!作曲家デビューから死去までの代表曲は?死因は?」に続く
1968年、佐川満男さんに提供した「今は幸せかい」で作曲家としてデビューすると、いきなり75万枚を売り上げる大ヒットを記録し、以降、「大阪の女」(ザ・ピーナッツ)、「喝采」(ちあきなおみさん)、「わたしの青い鳥」(桜田淳 …