1967年、22歳の時、ギャグ短編漫画「目明しポリ吉」で漫画家デビューすると、1968年には、新創刊された「少年ジャンプ」(後の「週刊少年ジャンプ」)に連載した「ハレンチ学園」が社会現象を巻き起こすほどの大ヒットを記録した、永井豪(ながい ごう)さん。
そんな永井豪さんは、3歳の時に、お兄さんが東京から持って帰ってくれた手塚治虫さんの漫画を見て衝撃を受け、自分でも漫画を描くようになると、中学時代は、もっぱらアイディアをノートに書き溜め、高校進学後、本格的に漫画を描き始めていたといいます。
今回は、永井豪さんの、幼少期(生い立ち)から予備校を辞めるまでをご紹介します。

永井豪のプロフィール
永井豪さんは、1945年9月6日生まれ、
石川県鳳至郡輪島町(現在の輪島市)の出身、
(小学1年生の夏休みに東京都豊島区に転居)
血液型はО型、
学歴は、
豊島区立大塚台小学校(現 豊島区立朋有小学校)
⇒豊島区立西巣鴨中学校
⇒東京都立板橋高等学校卒業
趣味は、読書、映画観賞、ゴルフ、
ちなみに、本名は、「永井潔」というそうです。
永井豪を妊娠中の母親は上海からの引揚船に乗り命がけで帰国していた
永井豪さんは、お父さんの永井芳雄さんとお母さんの冨士子さんのもと、5人兄弟の4男として、石川県の輪島市で誕生したそうですが、お父さんが上海で貿易商を営んでいたことから、もともと、永井家は家族で上海に住んでいたといいます。
そんな中、太平洋戦争末期、上海の情勢が悪くなってきたことに伴い、永井豪さんを妊娠中のお母さんが永井豪さんのお兄さん3人を連れて引揚船に乗り、命からがら福岡に上陸して帰国したそうで、
親戚を頼って、はるばる石川県輪島市まで訪ね、そこで永井豪さんを出産したのだそうです。
(お父さんは、事業整理のため、ぎりぎりまで上海に残らなければならず、永井豪さんが誕生する直前まで、上海で貿易商を営んでいたそうで、お母さんやお兄さんたちとは一緒に帰国しなかったそうです)
永井豪が幼い頃は慎重で用心深い子供だった
さておき、永井豪さんは、幼少期、非常に慎重で用心深い性格で、車が通る道を渡るのがとても苦手だったそうで、
当時の輪島市の大通りは車の通りが少なかったにもかかわらず、遠くに車が見えると、兄たちが「大丈夫だよ」と声をかけても聞かず、車が通り過ぎるまでじっと待っていたそうで、永井豪さんは、危険に対して異常なほど敏感だったといいます。
また、海を極度に恐れていたそうで、お父さんが泳ぎを教えようと海に連れて行っても、必ず途中で逃げ出してしまうほどだったそうで、
永井豪さんは、このことについて、
これもやはり、母の胎内で体験した“海に対する恐怖”のせいだと思う。だから僕がようやく泳ぎを覚えるのは、高校生になってからのことだ。
せっかくきれいな海に囲まれた輪島に生まれたのに、子供の頃海で遊んでいないなんて、今にして思えば本当にもったいないことをした。
と、語っています。
永井豪は3~4歳の時に手塚治虫の漫画を初めて読み衝撃を受けていた
また、永井豪さんは、車や海を怖がるだけでなく、空想にふけったりすることが好きで、近所の子供たちと外で遊ぶよりも、兄弟と一緒に家で過ごすことが好きだったそうですが、
そんな中、永井豪さんが、3~4歳の時、旧制四高(現在の金沢大学)の寮で暮らしていた14歳年上の長兄が、実家に帰省した際、
手塚治虫さんの漫画「メトロポリス」「ロストワールド」「ファウスト」「拳銃天使」の4冊を持って帰ってくれたそうで、永井豪さんは、それを見て、衝撃を受けたといいます。
(それまでも、永井豪さんは、お兄さんたちが読んでいた雑誌「冒険活劇文庫」に載っていた「黄金バット」などの漫画の絵を(まだ文字が読めなかったことから)夢中で見ていたそうですが、手塚治虫さんの漫画を見た時の衝撃はとても大きかったそうです)
ちなみに、4冊の漫画を持って帰ってくれた長兄は、4人の弟たちに好きな本を選ばせてくれたそうで、
年下の弟たちから先に選ぶことになり、まず、一番下の弟が一番分厚い「拳銃天使」を選ぶと、次に、永井豪さんが上下巻の2冊組だった「ロストワールド」を選び、すぐ上のお兄さんが「メトロポリス」を選び、その上のお兄さんが残った(少し哲学的な)「ファウスト」となったのだそうです。
(長兄は、実家へ帰省する度に、手塚治虫さんの「赤本」と呼ばれる漫画を何冊も持って帰ってくれたそうです)
永井豪は小学生の時に漠然と漫画家になることを決めていた
そんな永井豪さんは、手塚治虫さんの漫画を見ながら、自分自身でも、見様見真似で漫画を描き始めたそうで、
小学生の時には、漠然と、将来は、漫画家になると決めていたといいます。
永井豪は高校進学後に本格的に漫画を描き始めていた
そして、中学に進学すると、漫画のアイディアをひたすらノートに書き溜め、
(漫画は描かなかったそうです)
高校進学後、本格的に漫画を描き始めたのだそうです。
永井豪は高校卒業後は大学受験に失敗し予備校に通っていた
ただ、勉強をしないで漫画ばかり描いていた永井豪さんは、当然ながら、大学受験に失敗。
(もともと、永井豪さんは、高校卒業後は、漫画家になるつもりで、大学に行くつもりはなかったそうですが、かといって、どうすれば漫画家になれるのか真剣に考えていた訳ではなく、具体的に深く考えていなかったそうです)
そこで、周りに流されるように、とりあえず、友達と一緒に予備校に行くことにしたそうで、予備校の授業は、最初のうちは、高校と違って新鮮で楽しかったそうですが、そのうち飽き、授業中、ノートに漫画を描くようになったそうです。
とはいえ、頭の中には、ものすごいイメージが広がっているにもかかわらず、それを絵で表現しようとすると、手が追いつかず、どう描いても納得いくものにならなかったそうで、
結局、自分の思い通りに描けないため、嫌になってやめてしまう、ということを繰り返していたのだそうです。
(そのため、この時期の作品は全部未完で終わっているそうです)
永井豪は予備校時代に死への恐怖を体験し漫画家になる決意を固めていた
そんな中、永井豪さんは予備校時代、下痢が1ヶ月続く体調不良に見舞われたそうで、お兄さんに相談したところ、「ガンだ」と言われたそうで、信頼しているお兄さんの言葉に怖くなり、すぐに病院で検査を受けたそうですが、
病院で検査結果を待つ間、死への恐怖と、「自分は孤独だ」という強烈な疎外感に襲われたといいます。
そして、この時、永井豪さんは、死はすべてとの別れであり、自分の存在が忘れられることへの恐怖を感じたそうで、
何か一つ、自分がこの世に生きていた証として作品を完成させよう。もし生き延びることが出来たら、絶対にマンガ家になって、自分の生きていた証拠をたくさん残そう。
と、長年、描き続けてきた漫画こそが、自分の存在の証になると、漫画家になる決心を固めたのだそうです。
ちなみに、検査の結果は、ただの腸カタル(腸炎)で、もらった薬を飲むとアッという間に下痢も治ってしまったそうで、永井豪さんは拍子抜けしたそうですが(笑)、
この経験は、永井豪さんの人生観を大きく変え、漫画家になるという揺るぎない決意を固めさせたそうで、永井豪さんは、間もなく、予備校を辞め、漫画制作に没頭したのだそうです。
「永井豪は下積時代に石ノ森章太郎のアシスタントを1人で務めていたことがあった!」に続く
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石ノ森章太郎さんのアシスタントを経て、1967年、22歳の時、「目明しポリ吉」で漫画家デビューすると、以降、ナンセンスなギャグ漫画から、シリアス、コメディ、SFまで、幅広いジャンルの漫画作品を数多く発表し、人気漫画家の地 …





