1971年、空手家・大山倍達氏の武勇伝を描いた、梶原一騎さん原作の漫画「空手バカ一代」の作画を担当するも、全6章のうち、第3章で降板したつのだじろうさんは、
1978年には、大山倍達氏が原作を手掛けた伝記漫画「ゴッドハンド」の連載を開始するも、梶原一騎さんにクレームをつけられ、梶原一騎さんと対立することとなったといいます。
一体、つのだじろうさんと梶原一騎さんの間に何があったのでしょうか。
今回は、つのだじろうさんが梶原一騎さんと不仲になった原因、その経緯、その後、つのだじろうさんと梶原一騎さんの関係がどうなったかについて、時系列でご紹介します。
「【画像】つのだじろうの若い頃は?代表作(漫画)は?現在は引退?」からの続き
つのだじろうは梶原一騎の遅筆が原因で「空手バカ一代」の作画を降板していた
梶原一騎さんが原作を手がけた漫画「空手バカ一代」は、「実話に基づいたノンフィクション」という触れ込みで、1970年代に「週刊少年マガジン」で連載されると、
物語の前半では、「極真会館」を創設した空手家・大山倍達(おおやま ますたつ)氏の数々の武勇伝、後半では大山倍達氏の弟子たちが日本のみならず世界に活躍の場を広げていく様子が描かれ、たちまち人気を博し、「極真会館」の名を広く世に知らしめたのですが、
(後に、梶原一騎さん本人が、「空手バカ一代」の内容の9割が創作だったことを明かしています)
つのだじろうさんは、1971年、そんな「空手バカ一代」の作画を担当することになると、入稿一週間前には必ずシナリオを届けてくれるように念押ししていたにもかかわらず、
梶原一騎さんからは、いつまでたっても原作の原稿が届かずに、ズルズルと引き伸ばされ、ひどい時には、入稿期日の前日にようやく届くこともあったそうで、
そのため、執筆を手伝うアシスタントにも大変な重労働を強いることになり、このハードスケジュールに現場は荒れに荒れ、つのだじろうさんのもとから逃げ出すスタッフが後を絶たなかったそうで、
ついに、つのだじろうさんは、1973年、「連載を降りたい」と降板を申し入れたといいます。
(「空手バカ一代」全6章のうち、第3章までの作画はつのだじろうさん、その後の第4章から第6章までは影丸譲也さんが担当しています)
つのだじろうは梶原一騎の圧力で自作品「ゴッドハンド」が打ち切りになっていた
その後、つのだじろうさんは、1978年4月、大山倍達氏が原作を手掛けた伝記漫画「ゴッドハンド」の連載を「週刊少年チャンピオン」で開始しているのですが、
(「ゴッドハンド」は、大山倍達氏本人の依頼による連載だったそうです)
これに対し、梶原一騎さんが、”アイディアの盗用”と激怒して、つのだじろうさんを詰問し、さらには、編集長まで呼び出して、ことの真相を追求したそうで、
結果、「ゴッドハンド」は9週で打ち切りとなってしまったといいます。
つのだじろうは梶原一騎を中傷する呪文を自作品「魔子」の最終回に掲載していた
このことがきっかけで、つのだじろうさんと梶原一騎さんは不仲になっているのですが、
つのだじろうさんは、「ゴッドハンド」が打ち切りとなった後も、梶原一騎さんから、嫌がらせや脅迫を受けていたそうで、
たまらず、つのだじろうさんは、「ゴッドハンド」が打ち切りとなった同年(1978年)、「ビッグコミック増刊号」で連載していた、自作品「魔子」の最終回で、
カラワジ・イキツ・キマト・ワヒオサ・ハノクキョウ・ミツオ・レシモオイ・・・呪われよ!(梶原一騎と真樹日佐夫は脅迫の罪を思い知れ)
カチク・ツテバン・ダクリノノロイ・オウケミクニク・ルクシミ・クタルバ・・・呪われよ!(近く天罰下り呪いを受け醜く苦しみくたばる)
などと、
積年の鬱憤(うっぷん)を晴らすかのように、梶原一騎さんとその弟・真樹日佐夫さんを暗に中傷するアナグラム(並び替え)の呪文を誌面に掲載しています。
「つのだじろう詫び状事件」とは?
すると、この呪文は、すぐに梶原一騎さんと真樹日佐夫さんに知られることとなったそうで、
つのだじろうさんは、新宿の京王プラザに軟禁され、各出版社、業界関係者、漫画家仲間に謝罪文(詫び状)を出すように強制されたのだそうです。(つのだじろう詫び状事件)
そして、この事件後も、つのだじろうさんは、梶原一騎さんサイドから嫌がらせや圧力を受け続けたのだそうです。
つのだじろうと梶原一騎は最後まで和解せず絶縁状態だった
実際、つのだじろうさんは、後年、インタビューに対し、「ゴッドハンド」の打ち切りや「詫び状事件」について、
(梶原一騎さんサイドから)圧力を受けた
と、語り、
梶原一騎さんも、
もう顔も見たくない
と、つのだじろうさんに対する強い怒りを周囲に漏らしていたといいます。
そして、その後、梶原一騎さんが、傷害事件で逮捕されるなど、様々なスキャンダルにより名声を失墜させ、1987年には、膵臓炎を発症し、50歳の若さで他界された際も、つのだじろうさんは、一切コメントをしておらず、
結局、つのだじろうさんと梶原一騎さんが和解することはなかったようです。
「つのだじろうの妻は?息子はビトウゴウ!兄弟はつのだひろとつのだたかし!」に続く
1973年、「うしろの百太郎」「亡霊学級」「恐怖新聞」など、恐怖漫画と言われるジャンルの漫画を次々と発表し、オカルトブームを巻き起こした、つのだじろうさん。 そんなつのだじろうさんのプライベートはどのようなものだったので …