1953年、17歳で、小説を執筆するようになると、1962年には、漫画の原作を手がけるようになり、以降、「巨人の星」や「あしたのジョー」などの作品を次々と世に送り出した、梶原一騎(かじわら いっき)さんですが、
幼い頃から気性が荒く、乱暴者だったそうで、小学校では、問題を起こしては退学と転校を繰り返し、12歳の時、大暴れして同級生に大ケガを負わせると、13歳の春には、両親によって教護院「東京都立誠明学園」に入れられ、ここで、中学にあたる3年間を過ごしたといいます。
今回は、梶原一騎さんの生い立ち(幼少期から高校時代まで)をご紹介します。

梶原一騎のプロフィール
梶原一騎さんは、1936年9月4日生まれ、
東京市浅草区石浜(現・東京都台東区)の出身、
(教師だった父方の祖父が九州出身だったため、公称では、出身地を「熊本」としていたそうです)
血液型はA型、
学歴は、
私立緑岡小学(現・青山学院初等部)
⇒公立の小学校(転校)
⇒大田区立相生小学校(転校)
⇒東京都立芝商業高等学校中退
ちなみに、弟は、漫画原作者で空手家の真樹日佐夫さんです。
梶原一騎の国籍は?在日?本名は?ペンネームの由来は?
梶原一騎さんは、在日と言われることが多いようですが、祖父母の代から日本人で、完全な日本国籍の日本人です。
また、梶原一騎さんの本名は「高森朝樹(たかもり あさき)」で、「高森朝雄(たかもり あさお)」名義で活動していたこともあったそうですが、
梶原一騎さんは、ペンネーム「梶原一騎」の由来について、
僕は親父からいつも言われていたんだよ。
「力があってもどこか抜けた所、甘さをもった人間になれ」とね。
(平安時代末期の)宇治川の(戦いでの)先陣争いで、佐々木高綱が梶原景季の後になって。それで負けそうなものだから「お前の馬の腹帯はゆるんでいるぞ」と言ったら梶原景季が本気になって調べているうちに(佐々木高綱に)抜かれてました、という話ね。
そういう彼は、一番乗りできる力をもっていても、そういう抜けたところのある男ね、人間ね。僕はこの話が非常に好きなんだよね。
それからやっぱり男というものは、一騎というのは要するに「オンリーマン」に通ずるね。
何か男というのは所詮孤独なものだというようなね。
「梶原一騎」というのは今思うと恥ずかしいペンネームだと思うけど、もう売れちゃったからね。今だったら少し文学的なペンネームをつけるよ。
と、語っています。
(「梶原」は、教護院「誠明学園」時代に、恋仲となり、結婚まで考えていた女子生徒の苗字に由来するという話もあります)
梶原一騎は幼少期から乱暴な性格で小学校を1年も経たないうちに退学させられていた
梶原一騎さんは、中央公論社で「世界文芸大辞典」の校正員として働いていたお父さんの高森龍夫さんと、お母さんのや江さんのもと、東京市浅草区石浜(現・東京都台東区橋場)の木賃アパートで、3人兄弟の長男として誕生すると、
生後まもなく、両親とともに渋谷区原宿穏田1丁目(現在の神宮前4・6丁目周辺)に移り住んだそうですが、
幼少期から非常に乱暴でケンカっ早い性格だったそうで、1943年、お父さんも通っていたという私立緑岡小学校(後の青山学院初等部)に入学するも、もともとの荒い気質と校風が合わず、
クラスメートや上級生たちとケンカばかりしていたことから、1年も経たないうちに、退学させられ、家の近くの公立高校に入れられたそうです
ちなみに、梶原一騎さんは、退学させられる際、担任の教師に、
あなたは、こういう学校には向かない子です!普通の学校に行った方がいいのではありませんか。
と、罵(ののし)られたそうで、この言葉は、子供心にも傷ついたそうです。
また、梶原一騎さんの弟・真樹日佐夫さんは、梶原一騎さんの乱暴な性格について、
お父ちゃんの方の血が知性なら、おふくろの方は乱暴者で、情念の血
(兄・梶原一騎さんは)知的な高森家と、大柄で激烈な気性の持ち主ばかりだった母方の佐藤家の遺伝子の「合作」だった
などと、語っています。
梶原一騎は小学2年生の時に宮崎県に疎開していた
さておき、梶原一騎さんは、翌年の1945年、小学2年生の時には、本土空襲が激しくなったことから、仕事のあるお父さんを東京に残し、一家で、ミカン山を営んでいたお父さんの叔父さんが住む宮崎県東臼杵郡富島町(現在の日向市)に疎開したそうですが、
地元の子供たちには馴染めず(おとなしくしていたそうです)、むしろ、隣の県の鹿児島・鹿屋基地の特攻隊員と仲良くなったといいます。
(特攻隊員たちは、最後の自由を味わうため、梶原一騎さんの疎開先の近くまで来ていたのだそうです)
梶原一騎は11歳の時にケンカに明け暮れ川崎の公立小学校も退学させられていた
そして、終戦後、梶原一騎さんは、お父さんの家があった神奈川県藤沢市の鵠沼海岸で暮らしたそうですが、
それから2年後、川崎市・浜町に転居し、11歳の時、川崎の公立小学校に通い始めると、またしても、ケンカに明け暮れたそうで、ここでも退学させられ、その後、教護院「新日本学園」に1年間入れられたのだそうです。
(「少年院」が、家庭裁判所の決定により非行行為をした少年が収容され、矯正教育と社会復帰支援を受ける施設であるのに対して、「教護院」は、現在の「児童自立支援施設」の旧称で、非行行為のほか、家庭環境などの理由で生活指導が必要な児童が対象となるそうです)
梶原一騎は13歳の時に両親により教護院「東京都立誠明学園」に入れられていた
その後、梶原一騎さんは、北九州・小倉に住むお母さんの親戚に預けられることになったそうですが、今度は、転校先の小学校で教師を闇討ちして、またしても退学となったそうで、
東京都大田区蒲田へ引っ越していたお父さんのもとに戻ったそうですが・・・
今度は、転居直後から、蒲田駅前のマーケットで万引きや盗みを繰り返し、何度も補導されたのだそうです。
そんな中、梶原一騎さんは、あり余るエネルギーを発散するため、弟の真樹日佐夫さんと共に柔道場に通い始めたそうですが、乱暴さは収まることはなく、転校先の大田区立相生小学校では、大暴れして同級生に大ケガを負わせたそうで、
ついには、13歳の春、梶原一騎さんは、両親によって、東京・青梅の教護院「東京都立誠明学園」に入れられ、ここで、(中学にあたる)3年間を過ごしたのだそうです。
(「あしたのジョー」(梶原一騎さん原作・ちばてつやさん作画)では、ジョーが鑑別所でリンチされるシーンが描かれているのですが、これは、梶原一騎さん自身の体験に基づいているそうです)

「あしたのジョー」より。
ちなみに、梶原一騎さんの両親は、弟たちには愛情を注いでいたそうですが、梶原一騎さんに対しては、いくら頑張っても認めようとしなかったそうで、
梶原一騎さんが「東京都立誠明学園」在学中、少なくとも2度脱走して、家に戻った際、弟から、「両親への当てつけか」と問われたそうですが、
梶原一騎さんは、
みんな血の滾(たぎ)りのせいなんでな。こればっかりは誰にも止められない。親にどうこうってのとは、ちっとばかり違うんだよな!
と、言ったといいます。
梶原一騎は17歳の時に教護院から東京都立芝商業高校を受験し合格していた
そんな梶原一騎さんは、教護院「東京都立誠明学園」でも、相変わらずケンカっ早く、1年もしないうちに学園のボスにのし上がったそうですが、
一方、読書好きで、図書館では、「少年クラブ」「少年画報」「冒険王」といった月刊少年誌に加え、大人向けの小説なども読みふけっていたほか、成績も優秀だったそうで、
17歳の時、東京都立芝商業高校を受験すると、見事、合格したのだそうです。
(「東京都立誠明学園」は、教護院ながら、成績優秀者は高校進学のための受験をすることができたそうです)
梶原一騎は高校進学後すぐに落ちこぼれ、ボクシングを始めるも鬱屈した感情が収まらなかった
こうして、晴れて、東京都立芝商業高校に進学した梶原一騎さんですが、ほとんどの生徒がそろばんをマスターしていたにもかかわらず、梶原一騎さんはまるでダメで、入学早々、落ちこぼれ始めたそうで、
教護院「東京都立誠明学園」とはまるで違う環境にストレスを感じ、ジムに通ってボクシングを習い始めたそうですが、鬱屈(うっくつ)した感情はなかなか収まらなかったのだそうです。
「【画像】梶原一騎の若い頃(漫画原作者デビュー)から死去までの作品や経歴は?」に続く
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1953年、高校1年生の夏、ボクシング小説「勝利のかげに」で作家としてデビューすると、1962年には、プロレス漫画「チャンピオン太」で漫画原作者に転身し、 以降、スポーツ漫画を次々と発表すると、1968年、32歳の時には …








