漫画原作者として、「巨人の星」「あしたのジョー」「タイガーマスク」「空手バカ一代」「愛と誠」など次々とヒットを飛ばし、1974年頃には、映画界にも進出するなど、飛ぶ鳥を落とす勢いだった、梶原一騎(かじわら いっき)さんですが、

1983年、傷害事件で逮捕されたことがきっかけで、過去の暴力事件や脅迫事件も明らかとなり、一気に失墜すると、追い打ちをかけるように、長年に渡るお酒の飲み過ぎや食べ過ぎが原因で壊死性劇症膵臓炎と診断され、1987年1月21日には他界されています。

今回は、そんな梶原一騎さんが、壊死性劇症膵臓炎と診断された時のこと、他界されるまでの経緯などをご紹介します。

梶原一騎

「梶原一騎は事件を起こして逮捕され有罪判決を受けていた!アントニオ猪木とも?」からの続き

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梶原一騎は46歳の時に「壊死性劇症膵臓炎」と診断されていた

梶原一騎さんは、1983年5月25日、46歳の時、「月刊少年マガジン」副編集長・飯島利和さんへの傷害事件で逮捕されると、2ヶ月に及ぶ勾留後に保釈されているのですが、

その後、同年8月8日、山の上ホテルでステーキと鰻(うなぎ)を一緒に食べた直後、倒れたそうで、病院での検査の結果、壊死性劇症膵臓炎と診断されたそうです。

(梶原一騎さんは、1985年3月14日、東京地裁で、懲役2年、執行猶予3年(求刑は懲役2年)の有罪判決を受けています)

梶原一騎の「壊死性劇症膵臓炎」は長年の暴飲暴食が原因だった

実は、梶原一騎さんは、特に1980年代に入ってから、アルコールを多量に摂取し、脂っこい食事を好む生活を送っていたそうで、これにより、胆石が形成されたそうですが、

長期間に渡り、胆石を放置していたことから、周辺の臓器にも影響を及ぼし、膵臓の状態もかなり悪化していたのだそうです。

梶原一騎は「壊死性劇症膵臓炎」の治療のため4度の手術を受けていた

そんな梶原一騎さんは、壊死性劇症膵臓炎の治療のため、わずかな期間に、4回の手術を受けたそうですが、

4度目の手術では、医師から、

あと2時間の命

と、宣告されるほどの重篤な状態から、奇跡的に生還していたといいます。

(ただ、体重は87kgから60kgを切るまでに減少したそうです)

梶原一騎の死因は?辞世の句は?

そんな中、梶原一騎さんは、1985年には、かねてより念願だった小説家に転身するべく、漫画原作者からの引退を宣言し、

「漫画ゴラク」誌上で、「梶原一騎引退記念作品」として、原作を手掛けた自伝漫画「男の星座」(作画:原田久仁信さん)の連載を開始しているのですが、

1987年の年明け、体調不良で入院すると、同年1月21日午後12時55分、東京女子医科大学病院で、壊死性劇症膵臓炎により、50歳で他界されたのでした。

ちなみに、病室には、

吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん

という辞世の句が残されていたといいます。

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梶原一騎は死の直前に鉛筆を削っていた

ところで、梶原一騎さんの息子・高森城さんは、

父は死ぬと分かっていた。入院する前に家で鉛筆を全部削り、これで絶筆となった『男の星座』の最終話を書いたんです

と、語っているのですが、

梶原一騎さんが、死の直前に削ったという、3Bの鉛筆6本は、どれも芯が長く、

高森城さんは、

書家が墨を研ぐかのように、カッターナイフで削るんです。筆圧を強くせず、踊らすように原稿を書いていた。だから、この芯の長さで大丈夫だったのでしょう

とも、語っています。

(「男の星座」は未完に終わっています)

「梶原一騎は池上季実子を愛人に?松坂慶子、島田陽子ほか女優多数とも?」に続く

梶原一騎
梶原一騎さんが死の直前に削ったという鉛筆。

お読みいただきありがとうございました

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