1983年5月25日、漫画の掲載内容をめぐって、講談社の「月刊少年マガジン」の飯島利和副編集長と口論になった際、顔を殴る蹴るの暴行を加え、傷害の容疑で逮捕された、梶原一騎(かじわら いっき)さんですが、
これをきっかけに、過去の暴力事件や脅迫事件も明らかになっていたといいます。
今回は、梶原一騎さんが過去に起こした事件をご紹介します。
「【画像】梶原一騎の若い頃(漫画原作者デビュー)から死去までの作品や経歴は?」からの続き
梶原一騎は「月刊少年マガジン」副編集長暴行事件を起こして逮捕され有罪判決を受けていた
1983年4月14日、梶原一騎さんは、「月刊少年マガジン」の飯島利和副編集長と記事掲載の件で話し合うため、当時、自身の付き人であり、プロレスラーでもあった大仁田厚さんを伴い、講談社を訪れたそうですが、
講談社本館の応接室で行われた飯島利和副編集長との話し合いは、当初から平行線をたどり、
梶原一騎さんが、
なぜ自分の書いたものが載せられないのか
と、掲載を強硬に主張する一方で、
飯島副編集長は、編集方針として掲載できない理由を繰り返し説明したといいます。
そんな中、要求が通らず激高した梶原一騎さんが、飯島副編集長に掴みかかって、暴行に及び、全治2週間のケガを負わせたそうで、
(当時、現場にいた大仁田厚さんは、後年のインタビューで、止めようとしたものの、師である梶原一騎さんの剣幕に圧倒され、何もできなかったと証言しています)
事件後、飯島副編集長が警視庁に被害届を提出し、これにより、同年5月25日、梶原一騎さんは傷害容疑で逮捕されたのでした。
また、裁判は長期化したそうですが、最終的には、1985年3月14日、梶原一騎さんは、東京地方裁判所により、懲役2年、執行猶予3年(求刑は懲役2年)の有罪判決を言い渡されたのでした。
梶原一騎は過去の暴力事件や脅迫事件も明らかとなり一気に地位と名声を失っていた
そんな中、梶原一騎さんは、この事件をきっかけに、
- 「赤坂のクラブホステスに対する暴行未遂事件」(1982年3月18日)
- 「アントニオ猪木監禁事件」(1982年8月)
- 「プロレスを10倍楽しく見る方法」のゴーストライターのゴジン・カーン氏から10万円を脅し取った疑いで逮捕(1983年6月)
など、過去の暴力事件や脅迫事件が明るみになったほか、警察にも覚醒剤常習の疑いもかけられ(結果的には無実)、
連載中の漫画作品が全て打ち切りとなるほか、単行本も絶版となり、梶原一騎さんの地位と名声は、一気に地に落ちています。
梶原一騎は「アントニオ猪木監禁事件」を起こしていた
ちなみに、明らかとなった事件の一つである、「アントニオ猪木監禁事件」は、1982年(昭和57年)8月、梶原一騎さんが、プロレス界の英雄・アントニオ猪木さんを監禁したとされる事件なのですが、
この事件の真相は報道されたものとは大きく異なっていたといいます。
大阪リーガロイヤルホテルで「猪木を呼べ!」と要求していた
1982年8月、梶原一騎さんは、大阪府立体育会館での空手の試合後、士道館空手の添野義二師範、その門下士道館空手の添野義二師範、その門下生数人、暴力団関係者らとともに、大阪リーガロイヤルホテルの一室で打ち上げを行っていたそうで、
そこに、梶原一騎さんから電話で呼び出された、新日本プロレス営業本部長の新間寿さんが訪れたそうですが、
(そこには梶原一騎さん以外にも多数の人物がおり、異様な雰囲気が漂っていたといいます)
突然、部屋にいた暴力団関係者の支部長が、
猪木を呼べ!
と、要求したことから、
新間寿さんがアントニオ猪木さんに連絡を入れると、アントニオ猪木さんも大阪リーガロイヤルホテルに来たそうです。
すると、暴力団関係者の支部長が、アントニオ猪木さんに、
(寛水流空手について)寛水流とは何事や!空手は梶原が極真やっとるやないか!それを寛水流なんてのを作るとはどういう了見だ!梶原を何だと思ってるんや!
と、激しく詰問したそうですが、
これに対し、アントニオ猪木さんは、
寛水流のことなら私より新間の方が詳しいから
と、冷静に言い残し、わずか3分ほどでその場を立ち去ったのだそうです。
真の被害者はアントニオ猪木ではなく新間寿
そこで、暴力団関係者の支部長は、残された新間寿さんに対して、
チャカ持ってこい!(ピストルを持ってこい)
などの脅し文句を交えながら、激しく恫喝(どうかつ)し始めたそうで、
(この時すでに夜の11時半を廻っていたそうです)
朝の6時30分まで約7時間に渡って新間寿さんを監禁したのだそうです。
ただ、この間、梶原一騎さんはほとんど何も語らずに黙って成り行きを見守り、事件の首謀者とされながらも、直接的な恫喝は暴力団関係者に任せていたほか、実際には、アントニオ猪木さんは監禁されておらず、真の被害者は新間寿さんで、
新間寿さんが、警察の事情聴取で、
猪木は監禁されていない
と証言したため、事件は一件落着となったのだそうです。
つまり、この「アントニオ猪木監禁事件」では、梶原一騎さんは起訴されなかったのでした。
アントニオ猪木の証言
ちなみに、アントニオ猪木さんは、後に、
俺は梶原さんとはほとんど付き合ったことがないんだ。極力避けてたんですよ。俺、梶原さんは好きじゃなかったから(笑)
(梶原一騎さんと)新間との間でなにかトラブルがあったとき、俺も一緒に大阪のホテルの一室に呼び出されて、よく事情が呑み込めないままいきなり脅されてね。
一緒にいた男は『チャカ持ってこい!』とか言ってるし。俺は〝チャカ〟ってピストルのことだってそのときは知らなかったんだけど(笑)
と、語っています。
(事件の詳細については、当事者である新間寿さんの証言頼りなのですが、新間寿さんは、翌年の「新日本プロレス内部のクーデター事件」で会社を追放されているほか、肝心の新間寿さんの証言内容がしばしば変わっており、真実は藪の中です)
事件の背景
タイガーマスクの権利を巡る確執があった
また、この「アントニオ猪木監禁事件」の背景には、梶原一騎さんの代表作「タイガーマスク」を巡る権利関係があったといいます。
というのも、新日本プロレスは、漫画原作者の梶原一騎さんの許可を得て、1981年より初代タイガーマスクを登場させていたのですが、この頃、新日本プロレスは、梶原一騎さんへのタイガーマスクの権利料の支払いが滞っていたそうで、
梶原一騎さんと新日本プロレスの間で、権利を巡る確執があったのだそうです。
梶原一騎は寛水流空手設立に強い不満を抱いていた
そんな中、さらに問題を複雑にしたのが、アントニオ猪木さんと空手家・水谷征夫氏によって設立された「寛水流空手」の存在だったそうで、
極真空手の大山倍達氏と義兄弟の関係にあった梶原一騎さんは、アントニオ猪木さんが新たな空手流派を設立したことに強い不満を抱いていたのだそうです。
「梶原一騎の死因は?病気で4度手術!辞世の句は?死の直前に鉛筆を削っていた!」に続く
漫画原作者として、「巨人の星」「あしたのジョー」「タイガーマスク」「空手バカ一代」「愛と誠」など次々とヒットを飛ばし、1974年頃には、映画界にも進出するなど、飛ぶ鳥を落とす勢いだった、梶原一騎(かじわら いっき)さんで …