1955年、18歳の時、「新・桃太郎」で漫画家デビューすると、少年・少女向けの漫画を描きつつ、オカルトや超常現象をテーマにした作品で注目を集め、1970年代には「うしろの百太郎」や「恐怖新聞」などが大ヒットした、つのだじろうさん。

今回は、そんなつのだじろうさんの若い頃(漫画家デビュー)から現在までの作品や経歴を時系列でご紹介します。

つのだじろう

「つのだじろうの生い立ちは?中学生で漫画家の島田啓三に弟子入りしていた!」からの続き

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つのだじろうは18歳の時に短編「新・桃太郎」で漫画家デビュー

師匠の島田啓三さんに「漫画少年」(学童社)の編集長へ紹介状を書いてもらい、毎月、期待を膨らませて「漫画少年」をチェックするも、一向に自分の作品が掲載されず、現実はそんなに甘くないと感じていたという、つのだじろうさんですが、

1955年3月、18歳の時、いつものように「漫画少年」を確認すると、なんと、自分の3ページの短編漫画「新・桃太郎」が掲載されていたそうで、これがつのだじろうさんの漫画家デビューとなったそうです。

ちなみに、この「新・桃太郎」が掲載されるにあたり、何の連絡もなく、いきなりだったそうで、つのだじろうさんはとても驚いたそうです。

つのだじろうは18歳頃に「新漫画党」に参加

こうして、つのだじろうさんは学童社に出入りするようになると、「漫画少年」に投稿していた若い漫画家、寺田ヒロオさんや藤子不二雄さんと知り合ったそうで、

やがて、トキワ荘に住む新人漫画家たちを中心に結成された「新漫画党」というグループがあるのを知ると、つのだじろうさんも「新漫画党」に参加したそうで、東京・豊島区にあった「トキワ荘」にスクーターを飛ばして通うようになったのだそうです。

(「新漫画党」では、新人漫画家たちが理想の漫画を描くために集まっていたのだそうです)

つのだじろうは22歳の時に「ルミちゃん教室」が大ヒット

そんな中、つのだじろうさんは、1958年、22歳の時には、少女漫画雑誌「りぼん」で連載していた「ルミちゃん教室」が大ヒットし、

「ルミちゃん教室」
「ルミちゃん教室」

その後も、

  • 1961年「ばら色の海」(なかよし)
    「ばら色の海」
    「ばら色の海」
  • 1961年「雨の子のうた」(なかよし)
  • 1964年「ブラック団」(週刊少年サンデー)
    「ブラック団」
    「ブラック団」
  • 1964年「あかね雲のうた」(りぼん)
  • 1965年「俺の太陽」(週刊少年サンデー)
  • 1965年「忍者あわて丸」(週刊少年キング)
    「忍者あわて丸」
    「忍者あわて丸」

など、少年誌、少女漫画誌を問わず、次々と発表しています。

(「忍者あわて丸」は、1968年、「ピュンピュン丸」としてテレビアニメ化されています)

つのだじろうは27歳の時に石森章太郎、鈴木伸一、藤子不二雄らとアニメ製作会社「スタジオ・ゼロ」を設立

そんなつのだじろうさんは、1963年、27歳の時には、 石森章太郎さん、鈴木伸一さん、藤子不二雄さんらと共にアニメ製作会社「スタジオ・ゼロ」を設立し、

  • 1965年「オバケのQ太郎」
  • 1966年「レインボー戦隊ロビン」(原案構成)
  • 1967年「パーマン」
  • 1968年「怪物くん」

などのアニメ作品を世に送り出すと、これらもヒットしています。

(ただ、「スタジオ・ゼロ」は1971年に解散しています)

つのだじろうは35歳~37歳の時に「空手バカ一代」が大ヒット

また、つのだじろうさんは、1969年には、梶原一騎さん原作による「虹をよぶ拳」を「冒険王」で、1971年には、同じく梶原一騎さん原作による「空手バカ一代」を「少年マガジン」で発表しているのですが、

「空手バカ一代」は、1973年にアニメ化されると大ヒットとなり、つのだじろうさんは、1970年代の空手ブームの火付け役にもなったのでした。

「空手バカ一代」
「空手バカ一代」

つのだじろうは37歳の時に恐怖漫画「亡霊学級」「うしろの百太郎」「恐怖新聞」が大ヒットしオカルトブームを巻き起こしていた

さらに、つのだじろうさんは、同年(1973年)、秋田書店から夏休みの企画として3部作のオファーがあり、「亡霊学級」という漫画を3部作で発表すると、「亡霊学級」は大ヒット。

そして、この成功を受け、今度は、「週刊少年マガジン」(講談社)から声がかかり、同年(1973年)、「うしろの百太郎」を発表すると、こちらも大ヒット。

さらに、同年(1973年)、「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)で、1日読むごとに100日ずつ寿命が縮まる「恐怖新聞」によってもたらされる未来の恐怖を描いた「恐怖新聞」を連載すると、これまた、たちまち人気が爆発。

こうして、つのだじろうさんは、1970年代のオカルトブームを巻き起こしたのでした。

つのだじろうがオカルト漫画を描くようになったきっかけとは?

ちなみに、つのだじろうさんがオカルト漫画を描くようになったのは、実体験がきっかけだったそうで、

つのだじろうさんは、22歳の時(1958年頃)、両国橋でUFOを見たそうですが、

その時、

人の知らないものがあるんだ

と、思い、オカルトに興味を持つようになったそうで、

日本で不思議なものについて考えた時、幽霊や霊魂ではないか、との考えに至り、幽霊のことについて研究するようになったそうで、

そんな折、秋田書店からオファーがあり、「亡霊学級」を発表したのだそうです。

つのだじろうは当初「恐怖新聞」を描く予定はなかった?

また、つのだじろうさんは、「恐怖新聞」について、

(「うしろの百太郎」の連載が「講談社」で決まった際)秋田書店の壁村(「週刊少年チャンピオン」二代目編集長・壁村耐三氏)ってのがすっ飛んできて、「うちでやったものを講談社に出すとは何事か」と怒ってきた(笑)。

「夏休みの3部作の企画で描いてくれ」と頼まれて『亡霊学級』を描いただけのことなのに・・・。壁村ってのはわけのわからん、だけど面白い男でね(苦笑)。それで、秋田書店で『恐怖新聞』を始めざるを得なかったんだ。

と、語っているほか、

「恐怖新聞」が大ヒットしたことについて、

(漫画が社会現象になったのは)たまたまの偶然。UFOを見てから、守護霊や背後霊の世界はあると考えて、それから色々と調べたものをネタに漫画を描いていっただけ。

でもいま思うと、そういう世界があるということを普及しろという使命だったのかもしれないね。

と、語っています。

(つのだじろうさんは、1970年代後半から、日本の心霊研究の第一人者として、頻繁にテレビにも出演していました)

つのだじろうは60代で引退していた

そんなつのだじろうさんは、恐怖漫画以外にも、

様々な女性達の運命をリアルに描いた「女たちの詩」(1971~1973年)

将棋をテーマとした「5五の龍」(1978~1980年)

夜の女たちを描いた「銀座花族」(1980年)

など、少年・少女向けだけではなく、様々なジャンルの漫画を発表していたのですが、

2000年代(正確な時期は不明)に現役を引退していたようで、

2009年、「少年チャンピオン」の40周年記念で、過去の名作漫画が読み切り企画として続々と掲載された際には、「恐怖新聞」も掲載されるも、作画は西条真二さんという別の漫画家が担当しており(原作・原案はつのだじろうさん)、

その際、つのだじろうさんは、インタビューで、

目がかすみ、線がぶれて見えることから漫画を描けなくなった

と、答えていたといいます。

(手が震えて描くことができなくなったとも)

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つのだじろうの漫画作品

それでは最後に、つのだじろうさんの主な漫画作品をご紹介しましょう。

ほか、数多くの作品を発表しています。

「つのだじろうと梶原一騎の不仲の原因は?最後まで和解せず絶縁状態だった!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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