CMソング、歌謡曲、ミュージカルと幅広く作曲を手掛けると、「見上げてごらん夜の星を」「恋の季節」「夜明けのスキャット」ほか数々のヒット曲を生み出し、日本のオリジナルミュージカルの発展に大きく貢献した、いずみたくさん。
そんないずみたくさんは、幼い頃は、お父さんがお芝居好き、お母さんが宝塚歌劇団のファンだったことから、お芝居と音楽に恵まれた環境で育ったそうで、太平洋戦争敗戦後の中学生の時、演劇部に入部すると、みるみる演劇にのめり込んだといいます。
今回は、いずみたくさんの生い立ち(幼少期~作曲家になろうと決意するまで)をご紹介します。

いずみたくのプロフィール
いずみたくさんは、1930年1月20日生まれ、
東京市下谷区(現・東京都台東区)の出身、
(東京・荒川区日暮里生まれ)
学歴は、
千駄木小学校
⇒東京府立第五中学校
⇒仙台陸軍幼年学校
⇒東京府立第五中学校(復学)
⇒鎌倉アカデミア演劇科
⇒舞台芸術学院演劇学科卒業
ちなみに、本名は「今泉隆雄(いまいずみ たかお)」というそうですが、舞台芸術学院時代は、「和泉卓(いずみ たく)」という芸名で演劇活動をしていたそうです。
いずみたくは幼い頃から演劇と音楽に恵まれた環境で育っていた
いずみたくさんは、東京中央電信局に勤めるお父さんと専業主婦のお母さんのもと誕生すると、幼い頃は、五軒長屋(現在の2DKの団地のような住まい)で、両親と兄弟のほか、お母さんの弟妹とおばあちゃんを含む8人暮らしという、にぎやかな家庭で育ったそうです。
また、いずみたくさんのお父さんはお芝居が好きで、お母さんは宝塚歌劇団のファンだったことから、しばしば、両親に連れられて、東京宝塚劇場や歌舞伎座に通うほか、自宅には蓄音機とお母さんが収集したレコードがたくさんあり、演劇や音楽に恵まれた環境で育ったそうです。
ちなみに、いずみたくさんも、お母さんの影響で宝塚歌劇団のファンになっていたそうで、幼稚園時代には、周りの子供たちが童謡を歌う中、1人だけ、宝塚歌劇団のラブソングを歌っていたそうです。
いずみたくは中学生時代には特攻隊に憧れて仙台陸軍幼年学校に転属していた
また、軍人に憧れていたといういずみたくさんは、その後、1944年、東京府立第五中学校に在学中だった14歳の時には、仙台陸軍幼年学校に転属を希望し、受験すると、見事、合格し、親元を離れて寮生活を送ったそうですが、
軍歌の練習中、勝手にハモリのパートをつけて歌い、上級生に殴られたこともあったといいます。
いずみたくは15歳の時に敗戦となり、生きる意味を見失って上野の闇市などを彷徨い歩いていた
そんないずみたくさんは、特攻隊員として死ぬことに憧れていたそうですが、1945年、15歳の時、太平洋戦争の敗戦を迎え、その後、東京府立第五中学校に復学すると、かつての同級生たちとの学力の差を痛感して、進路に絶望し、
(いずみたくさんが陸軍幼年学校で訓練している間、同級生たちは東京大学を目指して一心不乱に勉強していたのだそうです)
東大を目指す同級生たちを見ながら、戦時中とは正反対の平和な世界がもたらす虚無感に押しつぶされそうになったそうで、
やり場のない苛立ちを抱えつつ、生きる意味を見失い、上野の闇市をふらふらとさまよい歩き、映画を観たりするなどして、日々を過ごしたのだそうです。
いずみたくは中学時代に演劇部に入部すると演劇に没頭するようになっていた
そんな中、いずみたくさんは、「自分は一体何をすればいいのか」と自問自答を続けていたそうですが、
ふと、「演劇」が心に浮かび、そのまま中学の演劇部に入部すると、みるみるうちに演劇に没頭していったそうです。
いずみたくは高校時代には前田武彦と「劇団小熊座」を設立していた
そして、1946年、中学卒業後は、「鎌倉アカデミア」(鎌倉で開校した高等教育のための私立学校)の演劇科に入学すると、そこで、前田武彦さんと知り合ったそうで、
その後、前田武彦さんと「劇団小熊座」を創設し、いずみたくさんが脚本と演出、前田武彦さんが主演を務め、公演で全国を回るようになったのだそうです。
また、いずみたくさんは、オペレッタ(普通の台詞と歌の交じった軽い内容のオペラ)という音楽を知って感動し、繰り返し舞台を鑑賞してメロディを記憶するようになり、
同時に、ジャズの楽曲をハーモニカで練習しながら、紙にピアノの鍵盤を書き、ピアノの練習も始めたのだそうです。
(前田武彦さんの影響でジャズにも傾倒するようになったのだそうです)
いずみたくは18歳の時に中央演劇学校・舞台芸術学院に入学していた
ただ、「鎌倉アカデミア」は経済的な事情で活動が不安定になったそうで、
いずみたくさんは、このことをきっかけに、1948年、18歳の時には、中央演劇学校・舞台芸術学院へ入学し、声楽、体操、ダンス、アコーディオン演奏の技術を学び、習得したそうです。
いずみたくは20歳の時にタクシー運転手やトラック運転手をしながら作曲の勉強をしていた
そんないずみたくさんは、舞台芸術学院を卒業した、1950年、20歳の時には、「演劇集団劇座」を結成したそうで、演劇活動のかたわら、生活費を稼ぐためにタクシー運転手をしていたそうですが、次々と事故やトラブルに見舞われたそうで、
仕事中に音楽を聴き、休憩中にアコーディオンを練習するなど、自分のペースで音楽を勉強したり仕事ができる、トラックの運転手に転職し、独学で作曲と管弦楽法を学んだのだそうです。
(また、帰宅後は、ピアノの練習と作曲に全神経を集中させたそうです)
いずみたくは20歳頃に作曲家になる決意をしていた
そんな中、いずみたくさんは、山形での公演で、上演の準備をしている最中、アコーディオンを抱えてステージに上がり、観客(高齢者から幼い子供まで様々な年齢層の人が集まっていたそうです)に、ロシア民謡「カチューシャ」の歌い方を教えていたそうですが、
いずみたくさんが、
さあ、皆さん、もっと大きく声を出してください!
と、大きな声を出して指導するも、
みな、懸命にロシア民謡を歌おうと努力はするものの、口をもぐもぐと動かすだけで、歌声は会場内に広がらなかったそうで、
いずみたくさんは、その様子を見た瞬間、
みんなを歌わせるためには、日本の歌を作らなくては。いつまでも『カチューシャ』や『トロイカ』じゃだめなんだ。もっと身近な生活の歌・・・
と、本当はみな、日本の歌を歌いたがっているんだと分かり、こみあげるものを感じたそうで、
作曲家になろうと決意し、劇団を辞めたのだそうです。
「いずみたくの若い頃はCMソングを作曲!野坂昭如とのコンビで500曲も!」に続く
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1955年、25歳の時、三木鶏郎さんに誘われ、「冗談工房」に入所すると、5年間で、野坂昭如さんとコンビを組んだ「伊東に行くならハトヤ」をはじめ、500曲近くのCMソングを手掛け、 その後、永六輔さんに誘われ、初のミュージ …







