1940年、21歳の時、田辺三菱製薬の宣伝部に就職するも、すぐに徴兵されて中国へ従軍し、復員後は高知新聞社を経て三越百貨店で勤務すると、
1953年、34歳の時には、フリーの漫画家として独立し、「困った時のやなせさん」と呼ばれるほど多才なクリエイターとして活躍した、やなせたかしさん。
今回は、そんなやなせたかしさんの若い頃(会社員時代から独立してフリーの漫画家になるまで)について時系列でご紹介します。

「やなせたかしの生い立ちは?伯父夫妻に可愛がられるも自殺未遂&家出していた!」からの続き
やなせたかしは21歳の時に田辺三菱製薬の宣伝部に就職
やなせたかしさんは、1940年、東京高等工芸学校工芸図案科(現・千葉大学工学部)を卒業すると、
東京・日本橋にあった製薬会社・田邊元三郎商店(現・田辺三菱製薬)の宣伝部に就職し、広告やポスターのデザインを手掛けたそうで、忙しくも楽しい日々を送っていたそうです。
やなせたかしは21歳の時に太平洋戦争のため徴兵されていた
しかし、1941年1月には太平洋戦争のため招集を受け、旧小倉市(現・北九州市)が拠点の陸軍第十二師団野戦重砲兵第六聯隊の補充隊(通称・西部第七十三部隊)に入隊すると、
2年後の1943年には、中国・福州に送られて暗号班に配属され、暗号解読のかたわら宣撫活動(現地の住民に協力を呼び掛ける宣伝活動)をしたそうで、紙芝居を作って近隣の村々を回ったこともあったそうです。
また、やなせたかしさんは、従軍中、戦闘のない地域にいたことから、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったそうですが、終戦間際、上海への移動途中には、中国軍の奇襲を受けたそうで、近くで爆弾が破裂し、銃弾が耳をかすめ飛んだといいます。
そして、命からがら上海に到着した後も、マラリアに感染し、40度以上の高熱が何日も続くほか、食糧難による飢えに苦しむなど、過酷な体験をしたのだそうです。
やなせたかしは27歳の時に復員すると高知新聞社に入社していた
その後、1945年8月、上海近郊の泗渓鎮(しけいちん)で終戦を迎えると、やなせたかしさんは、1946年には、中国から復員して高知県の実家に戻り、その後、戦友の誘いで廃品回収の仕事に就いたそうですが、
アメリカ兵の捨てた雑誌を見るうち、絵への興味がよみがえってきたそうで、同年には、高知新聞社の採用試験を受けると、見事、合格。
「月刊高知」の編集部に配属されると、編集のかたわら、文章、漫画、付録、表紙絵などを手掛けたのだそうです。
やなせたかしは28歳の時に後に妻となる同僚・小松暢を追って上京していた
ただ、(後に結婚することになる)同僚の小松暢(こまつ のぶ)さんが、転職して議員秘書になるために上京することを知ると、
1947年には、やなせたかしさんも、小松暢さんの後を追うように、高知新聞社を退職し、上京したそうです。
やなせたかしは28歳頃に三越百貨店宣伝部に入社しグラフィックデザイナーとして勤務していた
上京後、やなせたかしさんは、三越百貨店へ入社し、宣伝部のグラフィックデザイナーとして勤務したそうで、
包装紙「華ひらく」(図案は猪熊弦一郎)に書かれた「mitsukoshi」という文字のレタリングを手掛けたそうです。
(当初、包装紙「華ひらく」はクリスマス期間限定予定だったそうですが、その後も長く使われたそうです)

三越の包装紙。
やなせたかしは34歳の時に三越百貨店を退職しフリーの漫画家となっていた
そんなやなせたかしさんは、グラフィックデザイナーとして働くかたわら、漫画も精力的に描き始めたそうで、新聞や雑誌に漫画の投稿を始めると、
やがて、漫画の仕事が増え、漫画で得る収入が、三越百貨店のお給料の3倍を上回ったことから、1953年3月には、三越百貨店を退職してフリーの漫画家として独立したそうです。
やなせたかしはフリーの漫画家として独立後は「困った時のやなせさん」と呼ばれるほど何でも器用にこなせるクリエイターだった
独立後、やなせたかしさんは、4コマ漫画やイラストのほか、舞台美術、作詞、テレビ出演、アニメーション映画のキャラクター設定、雑誌編集長、インタビュー、脚本など、多岐にわたる仕事をこなすようになったそうで、
(漫画やイラストの仕事よりも舞台装置の製作や放送作家、作詞家としての仕事が多かったそうです)
周囲からは、
困った時のやなせさん
と呼ばれるほど、依頼された仕事は、何でも器用にこなせるクリエイターとして知られる存在になったそうですが、
自身の代表作がないことが悩みだったといいます。
やなせたかしは35歳の時にはニッポンビール(現・サッポロビール)の広告に四コマ漫画「ビールの王さま」を連載していた
そんな中、1954年、35歳の時には、ニッポンビール(現・サッポロビール)の雑誌広告に、四コマ漫画「ビールの王さま」の連載を開始するほか、多数の連載漫画を手掛けるようになったそうですが、
漫画界では、手塚治虫さんの登場により、ストーリー性のある長編漫画や劇画が主流となったそうで、やなせたかしさんの仕事は徐々に減少していったのだそうです。
「【画像】やなせたかしの若い頃(作詞家・漫画家時代)から死去までの作品は?」に続く
![]()
1960年、41歳の時、ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の舞台美術を務め、作曲家のいずみたくさんと出会うと、翌年には共に名曲「手のひらを太陽に」を制作するほか、 1969年、50歳の時、「アンパンマン」を発表すると …







