「手のひらを太陽に」の作詞を手掛けるほか、国民的人気キャラクター「アンパンマン」を生み出すなど、漫画家、絵本作家、詩人などとして幅広く活動し、「本当の正義とは、困っている人を助けること」という信念のもと、子供たちに愛と勇気を届け続けた、やなせたかしさんですが、
実は、やなせたかしさんには、22歳という若さで戦死した2歳年下の弟(千尋さん)がいたそうで、その千尋さんの面影が「アンパンマン」の顔のモデルとなり、その早すぎる死とやなせたかしさん自身の戦争体験が「正義」のテーマとなっていたといいます。
今回は、そんなやなせたかしさんの弟・千尋さんとの関係や、千尋さんへの思いについて、ご紹介します。

「【画像】やなせたかしの若い頃(作詞家・漫画家時代)から死去までの作品は?」からの続き
やなせたかしが5歳の時に弟・千尋は父親の急死により伯父の養子となっていた
やなせたかしさんには、2歳年下の弟・千尋さんがいたそうですが、1924年、やなせたかしさんが5歳の時、中国・アモイに単身赴任していたお父さんの清さんが急死し、千尋さんは、伯父の柳瀬寛さん(父・清さんの兄)夫婦に引き取られ、養子となったそうです。
そのため、やなせたかしさんと千尋さんは離れ離れとなったそうですが、やなせたかしさんが7歳の時には、一緒に暮らしていたお母さんが再婚することとなり、やなせたかしさんは、千尋さんが養子となった伯父の柳瀬寛さんのところに引き取られることになったそうです。

1942年、やなせたかしさんの弟・千尋さんとお母さん。
やなせたかしは弟・千尋にコンプレックスを抱いていた
こうして、やなせたかしさんと千尋さん兄弟は、再び一緒に暮らすことになったそうですが・・・
やがて、やなせたかしさんは、弟の千尋さんを誇りに思うと同時にコンプレックスを抱くようになっていったといいます。
養子となった弟・千尋と居候の自分の扱いの差を感じていた
というのも、伯父さん夫婦はとてもいい人だったそうですが、養子になった千尋さんが、奥座敷で伯父夫妻と川の字になって寝ているのに対し、
養子ではなく、ただ預けられていただけの居候のやなせたかしさんは、玄関横の書生部屋で、やなせたかしさんの叔父で中学生の正周さん(父・清さんや伯父・寛さんの年の離れた末弟)と一緒に寝起きしていたそうで、千尋さんとの扱いの差を感じていたといいます。
養子として大事にされていた弟・千尋をうらやましく思っていた
また、幼くして居候となり、一歩下がって回りを冷静に見ていた(おとなしくて暗い性格になった)やなせたかしさんに対し、
千尋さんは、正式な養子として引き取られ、大切に育てられていたことから、甘えん坊でわがまま(しかし、それが愛らしい魅力となっていた)で、うらやましく思っていたといいます。
ハンサムな弟・千尋と自身をしばしば比較されていた
そして、千尋さんは、色白の丸顔で愛らしく、明るく誰にでも好かれる性格で、幼い頃から、周囲に、「お兄さん(やなせたかしさん)はお父さん似でおとなしいが、器量が悪い。弟さんはお母さん似でハンサムで快活だ」と言われ続けていたそうで、
やなせたかしさんは、千尋さんに対し、(特に容姿に)コンプレックスを抱いていたといいます。
(やなせたかしさんは、人見知りが激しく、人から好かれない、と自分で思っていたそうです)
弟・千尋は中学生になると成績優秀でスポーツマンとなりそれまでの自身と逆転していた
さらに、幼い頃は、やなせたかしさんが、健康で成績も優秀だったのに対し、千尋さんは病気がちで学校の成績も悪かったそうですが、
中学に入ってからは立場が逆転し、千尋さんはすっかり頑丈になって、柔道二段の筋骨たくましいスポーツマン、しかも優等生となったのに対し、やなせたかしさんは、柔道無段で劣等生(数学は0点)になっていたといいます。
やなせたかしは弟・千尋とは仲が良かった
とはいえ、千尋さんは、幼い頃からお兄さんであるやなせたかしさんが大好きで、どこに行くにも、
お兄さんと一緒じゃなきゃ嫌だ
と言って、いつもやなせたかしさんにくっつき、
やなせたかしさんも、千尋さんが愛読していた三好達治の詩集の中に、実の両親の写真が挟んであるのを見つけ、この時、初めて千尋さんの心情が理解できたこともあり、(千尋さんに対するコンプレックスを抱えながらも)兄弟の仲は良かったそうです。
また、やなせたかしさんは、青年期のある時、千尋さんに、
兄さんはきっと偉くなる人だ
と、言われたことがあったそうで、
柳瀬家の跡取り息子として、スターのような存在だった千尋さんに言われたこの言葉には、驚きつつも、励まされたそうです。
やなせたかしの弟・千尋は22歳で戦死していた
その後、千尋さんは、京都帝国大学(京都大学)に進学し、その後、海軍に入ると少尉になったそうですが、船団護衛の任務のため、出港することになると、小倉の部隊にいたやなせたかしさんに、最後の挨拶に来て、
ぼくはもうすぐ死んでしまうが 兄貴は生きて絵をかいてくれ
と、言ったそうで、
やなせたかしさんと千尋さんは手を握りあって別れたそうです。
そして、1944年、千尋さんが乗った船団護衛の船「呉竹」は、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で、アメリカ海軍の潜水艦の雷撃によって沈没し、千尋さんは22歳という若さで亡くなったのでした。
ちなみに、やなせたかしさんは、1945年8月、上海近郊の泗渓鎮(しけいちん)で終戦を迎え、1946年、中国から復員して高知県の実家に戻った時に、伯母(育ての母)から、千尋さんが戦死したことを知らされたそうですが、
その後、家に届いた骨壺の中には、小さな木札が一つ入っていただけで、遺骨はなかったそうです。
やなせたかしは戦争体験と弟・千尋の死が「正義とは何か」を考えるきっかけとなっていた
この、戦争での辛すぎる体験と早すぎる千尋さんの死が、やなせたかしさんの「正義とは何か」を考えるきっかけとなり、後に「アンパンマン」のテーマに集約されたそうですが、
特に、「鬼畜米英」と言っていた人が、敗戦後には「進駐軍万歳」と変わってしまったことで、自分が信じていた「正義」がひっくり返ったそうで、
ある日を境に逆転してしまう正義は、本当の正義ではない
と考え、ひっくり返ることのない正義は何かを考えるようになると、
その結果、戦地で腹をすかせたまま「正義」を振りかざしていた軍隊は「みじめなヒーロー」と思うようになり、
本当の正義というのは、
おなかのすいている人に自分の食べ物を分けてあげることだ
という結論に至ったそうで、
本当の「正義」である、「困っている人を助けること」「飢えている人に食べ物を届けること」をアンパンマンのテーマとしたのだそうです。
やなせたかしは弟・千尋をモデルにアンパンマンの顔を描いていた
ちなみに、アンパンマンは、幼い頃の千尋さんをモデルに描かれたと言われているのですが、
やなせたかしさん自身は、そのことについて、
千尋は子どもの頃、顔がコンパスで描いたように丸かった。アンパンマンの顔を描くとき、どこか弟に似ているので、胸がキュンと切なくなります
アンパンマンを描いていくうちに自然に弟の千尋に似てきた
などと、語っており、
自分が大切だと思っていることを表現して、アンパンマンの顔を描くうちに、ふと気づくと、弟の千尋さんに似ていたといいます。
やなせたかしは弟・千尋を生涯に渡り思い続けていた
そんなやなせたかしさんは、2013年には、千尋さんへの思いを綴った詩・画集「おとうとものがたり」を出版しているのですが、
(当初は、出版することなど考えていなかったそうです)
年を取ればとるほど、年々さみしさ、つらさが増す。もしいま千尋が生きていてくれていたらどんなに心強い存在だろう。昔よりも今の方が1000倍悲しい。ただただ、さみしくてつらい
と、語っており、
やなせたかしさんが生涯を通じて千尋さんを思い続けていたことが分かります。
「やなせたかしの記念館アンパンマンミュージアムは妻の死を乗り越え建設したものだった!」に続く
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妻・暢(のぶ)さんの死から2年後の1996年、故郷・高知県香美市香北町に「香北町立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム(現・香美市立やなせたかし記念館)」をオープンした、やなせたかしさんですが、 実は、暢さんの死後 …








