作詞家、詩人、漫画家、イラストレーターとマルチに活動する中、50年以上に渡って子供のみならず大人も魅了するアンパンマンを生み出した、やなせたかしさん。
そんなやなせたかしさんのプライベートはどのようなものだったのでしょうか。
今回は、やなせたかしさんの妻・暢さんとの、馴れ初め、結婚に至った経緯、結婚後の関係(夫婦仲)について、ご紹介します。

「やなせたかしの死因は?腎盂・膀胱・肝臓ガンや心臓病ほか闘病生活だった!」からの続き
やなせたかしの妻・暢との馴れ初めは?
やなせたかしさんは、1949年、会社員時代、30歳の時、高知新聞社で3ヶ月先輩だった、小松暢(こまつ のぶ)さんと結婚しています。
やなせたかしさんは、1946年5月24日、高知新聞社に入社し、当初は社会部に配属されたそうですが、1ヶ月も経たないうちに、編集部に異動すると、そこで、3ヶ月先輩だった小松暢さんと出会い、真向かいの席に座っていた暢さんに一目惚れしたといいます。
(暢さんは、1946年2月18日、「見習い記者」として高知新聞社に入社すると、その後、編集部に異動となっていたそうです)
というのも、やなせたかしさんによると、暢さんは、一見、色白でか弱そうに見えるも、雷が鳴ると「もっと鳴れ!」と言って喜ぶほか、広告の集金の際、見下したような態度をとる相手には、ハンドバックを投げつけて「きちんと払いなさいよ」と啖呵(たんか)を切っていたそうで、
そんな暢さんの男勝りな姿を見て、すっかり好きになったのだそうです。
それでも、やなせたかしさんは、当初、なかなか自身の気持ちを暢さんに打ち明けることができなかったそうですが、やがて、暢さんも、優しくて穏やかなやなせたかしさんのことが好きになっていったそうで、
その後、2人は仲良くなり、やなせたかしさんがプロポーズする形で恋愛関係へと発展していったのだそうです。
やなせたかしの妻・暢は前夫とは死別していた
ちなみに、小松暢さんは、当時、日本最大の総合商社だった鈴木商店で働くお父さんのもと、1918年に大阪で誕生すると、幼い頃から、毛皮のコートを着るなど、裕福でモダンな暮らしをし、女学生時代には、短距離ランナーとして活躍したといいます。
そして、女学校卒業後は、東京で、日本郵船に勤める小松総一郎氏と出会い、結婚したそうですが、新婚早々、太平洋戦争が始まると、小松総一郎氏は召集され、終戦後は、戦争から帰還したものの、病気で亡くなってしまったそうで、
その後、暢さんは、夫が遺したライカのカメラを手に高知新聞社に入社して、「月刊高知」の女性記者となり、そこに、やなせたかしさんが入社してきたのだそうです。
やなせたかしは28歳の時に暢を追うように上京していた
さておき、交際をスタートしたやなせたかしさんと暢さんですが、そんな中、暢さんは、速記の技術を買われ、東京で高知県選出の衆院議員の秘書を務めることに決まり、入社から1年経たないうちに、高知新聞社を退職することとなったそうで、
暢さんは、やなせたかしさんが東京で漫画の仕事をしたいと願っていたことを知っていたことから、
先に行って待っている
と言って、上京したそうで、
やなせたかしさんも、1947年6月、覚悟を決め、高知新聞社を退職して上京したそうです。
(別説では、やなせたかしさんは、暢さんがあっさり上京してしまったことから、振られたと思い、寂しい思いで暮らしていたところ、南海大地震が起こるも、地震の中でもぐっすりと眠って寝坊したことから、自分はジャーナリストに向いてないと自覚し、デザイナーか漫画家を志して上京を決意したという話もあります)
やなせたかしは暢とは上京後に同居を経て結婚していた
こうして、やなせたかしさんは、東京で暢さんと同居を始めると、同年(1947年)10月には、三越百貨店に入社して宣伝部に勤務したそうですが、
そのかたわら、新聞や雑誌など様々なメディアに漫画を投稿し始めたそうで、1949年には、暢さんと結婚したのだそうです。
やなせたかしは漫画家として独立する際、妻・暢に背中を押されていた
その後も、やなせたかしさんは、三越百貨店勤務と漫画投稿の二足の草鞋を履き続けると、1953年、34歳の時、漫画家としての収入が三越百貨店でのお給料の3倍を超えたことから、三越百貨店を退職し、漫画家として独立したそうですが、
実は、やなせたかしさんが、独立に際し、多少の不安を感じていると、
暢さんが、
なんとかなる。収入が途絶えたなら、私が食べさせてあげるから、大丈夫
と、励まし、背中を押してくれたといいます。
やなせたかしと妻・暢の夫婦仲は?
ちなみに、結婚後、やなせたかしさんは、マンションの3階の部屋を仕事部屋、6階の部屋を自宅として、公私を完全に分けて仕事に没頭し、自身の作品についても、暢さんに説明することはなかったそうですが、
暢さんも、やなせたかしさんの仕事に口出ししたり、表に出しゃばったり、仕事関係者とも付き合いをせず、自身の好きなことに熱中していたことから、2人は一度もケンカをしたことがなかったといいます。
また、やなせたかしさんは、おだやかな性格だったことから、暢さんに対して怒ったり、大きな声を出すこともなかったそうで、
暢さんは、(珍しく新聞と雑誌の取材を受けた際)そんなやなせたかしさんについて、
根っから、やさしい人なんですね。草花にも生き物にも
なんていうんでしょうね。ただ気がやさしいとかの程度じゃないんです。ちょっと標準をはずれるくらい。虫も殺せないところがありますよ
と、語っています。
やなせたかしの妻・暢は決して弱音を吐かなかった
そして、やなせたかしさんが腎臓結石で1週間入院することとなった時には、暢さんは、動きやすいよう髪をバッサリ短く切って看病してくれたそうで、
やなせたかしさんは、
ぼくは自分の仕事以外は、全部カミさんに頼っていた。散髪も時にカミさんにしてもらった。ぼくが病気になると、自分の髪をばっさりとショートカットにして、全力をかたむけて看病してくれた。実に頼りがいがある
と、語っています。
ちなみに、暢さんは、
私は悪妻かもしれないけど、元気が取り柄よ
が、口癖だったそうで、
少しぐらい体調が悪くても、仕事や家事をこなし、どんな時も決して弱音を吐かなかったといいます。
「やなせたかしの妻の死因は?余命3ヶ月から丸山ワクチンで5年延命していた!」に続く
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