1970年、14歳の時、作詞家のなかにし礼さんにスカウトされ、「白い週末」でアイドル歌手デビューすると、1974年、17歳の時には、「グッド・バイ・マイ・ラブ」が50万枚を売り上げる大ヒットを記録するも、その後は伸び悩んでいたという、アン・ルイス(あん るいす)さん。
今回は、そんなアン・ルイスさんの、生い立ちや若い頃(アイドル歌手時代)のシングルほか経歴をご紹介します。

アン・ルイスのプロフィール
アン・ルイスさんは、1956年6月5日生まれ、
兵庫県神戸市の出身、
本名は、アン・リンダ・ルイス、
学歴は、横浜ケニックハイスクール卒業?
趣味は、料理、パソコン、植樹、車、
だそうです。
アン・ルイスはハーフ?
アン・ルイスさんは、お父さんがアイルランド系アメリカ人、お母さんが日本人なので、ハーフです。
ちなみに、アン・ルイスさんよりも年上のハーフの女性タレントたちは、お父さんがアメリカ軍人で、終戦後は帰国したまま帰ってこず、お母さんに女手一つで育てられた人が多かったそうで、
アン・ルイスさんも、アイドル歌手として活動していた14歳~17歳の頃は、「お父さんはいるの?」と必ず聞かれたほか、ハーフの女の子は遊び人だと思われていたことから、ハーフであることを気にし、”いい子”としてふるまっていたといいます。
アン・ルイスは3歳頃から雑誌のモデルやフィルム会社のCMに出演していた
アン・ルイスさんは、アメリカ海軍の軍人だったお父さんと日本人のお母さん・ヨシコさんのもと、2人きょうだい(兄1人)の長女として誕生すると、3歳頃から雑誌のモデルやフィルム会社のCMに出演するなど、芸能活動を始めたそうですが、
7歳の時には、兵庫県神戸市から横浜市中区本牧のアメリカ海軍住宅街「ベイサイドコート」に移り住み、そこで育ったそうです。
(お父さんは2002年(アン・ルイスさん46歳)に亡くなり、お母さんは2012年(アン・ルイスさん56歳)に、肝臓ガンによる肺炎のため亡くなったそうですが、お母さんが亡くなる直前、アメリカ・ロサンゼルスに在住していたアン・ルイスさんは、当時、ハワイ在住だったお母さんの看病をするため、ハワイに滞在していたそうです)
アン・ルイスは14歳の時になかにし礼にスカウトされて「白い週末」でアイドル歌手デビュー
すると、1970年、14歳の時には、横浜外国人墓地を散歩していた際、同じく、散歩していた作詞家のなかにし礼さんにスカウトされたそうで、
事務所「なかにし礼商会」のタレント第一号となると、翌年の1971年2月25日には、シングル「白い週末」(作曲:川口真さん、作詞&プロデュース:なかにし礼さん)でアイドル歌手デビューを果たしています。

「白い週末」
ちなみに、なかにし礼さんは、ラジオ番組「ドコモ団塊倶楽部」にゲスト出演した際、パーソナリティの弘兼憲史さんとのやり取りの中で、
弘兼憲史さん:(アン・ルイスさんを)一見してスターになれるというイメージが(あった?)
なかにし礼さん:だって可愛いもの
弘兼憲史さん:そういう形で見つけられるんですね
と、語っており、ひと目見て、アン・ルイスさんを気に入ったといいます。
(なかにし礼さんは、アン・ルイスさんと出会った頃、既に、作詞家デビュー4年目にして、2度の日本レコード大賞を受賞しており、まさに快進撃の真っ最中でした)
アン・ルイスは15歳~17歳の時、アイドル歌手として「明日になったら」「ハッピー・ヨコハマ」「わかりません」「おぼえてますか」をリリースするも売上はパッとしなかった
ただ、その後、ほどなくして、なかにし礼さんのお兄さんが事業に失敗したことから、このあおりを受けて「なかにし礼商会」も解散。
それでも、アン・ルイスさんは、渡辺プロダクション傘下の「サンズ」に移籍し、
- 1972年4月5日「明日になったら」(作詞:なかにし礼さん)

「明日になったら」 - 1972年9月25日「ハッピー・ヨコハマ」(作詞:なかにし礼さん)

「ハッピー・ヨコハマ」 - 1973年4月25日「わかりません」(作詞:安井かずみさん)

「わかりません」 - 1973年10月5日「おぼえてますか」(作詞:安井かずみさん)

「おぼえてますか」
と、立て続けにシングルをリリースしたのですが・・・
いずれも売上はパッとしなかったのだそうです。
アン・ルイスは17歳の時に6thシングル「グッド・バイ・マイ・ラブ」が50万枚を売り上げる大ヒット
しかし、1974年4月5日、17歳の時、6枚目のシングル「グッド・バイ・マイ・ラブ」をリリースすると、甘いボーカルで、少女の別れを切々と歌ったこのバラードは、公称50万枚を売り上げる大ヒットを記録。
アン・ルイスさんは、一躍、スターダムに駆け上ったのでした。

「グッド・バイ・マイ・ラブ」
ちなみに、アン・ルイスさんが「サンズ」に移籍してからも、なかにし礼さんはアン・ルイスさんを大切に育てていたそうで、お兄さんの事業の失敗により巨額の借金を背負って作詩活動する中、ようやく、アン・ルイスさんをヒットさせたのでした。
アン・ルイスは18歳~20歳の時に「ハネムーン・イン・ハワイ」「フォー・シーズン」「恋のおもかげ」「ラスト・シーン」「ごめんなさい」「ラスト コンサート」をリリースするも売上はパッとしなかった
ただ、その後は、
- 1974年8月25日「ハネムーン・イン・ハワイ」

「ハネムーン・イン・ハワイ」 - 1974年11月25日「フォー・シーズン」

「フォー・シーズン」 - 1975年4月25日「恋のおもかげ」

「恋のおもかげ」 - 1975年10月25日「ラスト・シーン」

「ラスト・シーン」 - 1976年5月25日「ごめんなさい」

「ごめんなさい」 - 1976年11月25日「ラスト コンサート」

「ラスト コンサート」
と、シングルを次々とリリースするも、
またしても、売上はパッとしなかったのだそうです。
(そんな中、アン・ルイスさんは、ファッションに強いこだわりを持っていたことから、自身のステージ衣裳のデザインを手掛けるほか、1970年代後半は、事務所の後輩だったキャンディーズの「やさしい悪魔」のステージ衣装のデザイン、仲の良かったという山口百恵さんの衣装デザインを手掛けていたそうです)
「【画像】アン・ルイスの若い頃から現在までのヒット曲は?引退していた?」に続く
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