1977年、21歳の時、松任谷由実さんに「甘い予感」で作詞作曲を依頼したのをきっかけにアーティスト意識に目覚めると、以降、様々なアーティストに楽曲制作を依頼する中、徐々にロック路線に転向し、
1980年代には、「六本木心中」「あゝ無情」「WOMAN」などが大ヒットし、日本の女性ロックシンガーの先駆者として、確固たる地位を築き上げた、アン・ルイス(あん るいす)さん。
今回は、そんなアン・ルイスさんの若い頃(アイドル歌手から転向後)から引退するまでのヒット曲ほか経歴を時系列でご紹介します。

「【画像】アン・ルイスの生い立ちは?ハーフ?14歳でアイドル歌手デビュー!」からの続き
アン・ルイスは21歳の時に松任谷由実に作詞作曲を依頼した「甘い予感」でアーティスト意識が目覚めていた
清純派アイドル歌手として活動するも、レコードの売上が伸び悩んでいたというアン・ルイスさんは、デビュー6年目の1977年8月5日、21歳の時には、松任谷由実(当時は荒井由実)さんが作詞作曲を手掛けた13枚目のシングル「甘い予感」をリリースしているのですが、

「甘い予感」
アン・ルイスさんは、松任谷由実さんのレコーディングを見学しに行った際、松任谷由実さんがブースに入り、オケを録る姿を見て、
これが音楽の作り方なんだ
と、この時、アーティスト意識が目覚めたといいます。
(実は、雑誌のインタビューで「誰に曲を書きたい?」という質問をされた松任谷由実さんが、「アン・ルイスと欧陽菲菲に書きたい」と答えていた記事を、アン・ルイスさんのスタッフがたまたま見つけ、松任谷由実さんに楽曲制作を依頼していたのだそうです)
アン・ルイスは22歳の時にアイドルから脱するべく加瀬邦彦に作詞作曲を依頼し「女はそれを我慢できない」をリリースしていた
すると、その後、アン・ルイスさんは、アイドル歌手としてのイメージを捨てたくなったそうで、
「女ジュリー(沢田研二さん)」をやろうと思い立ち、沢田研二さんの曲を多く書いていた、「ザ・ワイルドワンズ」の元リーダー・加瀬邦彦さんに楽曲制作を依頼し、1978年5月5日は、加瀬邦彦さんが作詞・作曲を手掛けた「女はそれを我慢できない」をリリースすると、

「女はそれを我慢できない」
以降も、加瀬邦彦さんに作曲を依頼して、
- 1978年9月5日「女にスジは通らない」

「女にスジは通らない」 - 1979年6月25日「アイム・ア・ロンリー・レディ」

「アイム・ア・ロンリー・レディ」
をリリースし、ロック路線に転向しています。
アン・ルイスは23歳の時に山下達郎プロデュースの「恋のブギ・ウギ・トレイン」をリリース
また、アン・ルイスさんは、1979年12月25日には、山下達郎さんが作曲とプロデュースした和製ディスコ「恋のブギ・ウギ・トレイン」をリリースしているのですが、

「恋のブギ・ウギ・トレイン」
(山下達郎さんは、作詞を手掛けた吉田美奈子さんと共にコーラスにも参加しています)
この「恋のブギ・ウギ・トレイン」は、アン・ルイスさんが山下達郎さんと「16ビートのディスコをやろう!」と意気投合して完成した楽曲だったといいます。
(1980年6月5日には、英語バージョン「BOOGIE WOOGIE LOVE TRAIN」もリリースしています)
アン・ルイスは24歳の時に竹内まりや作詞作曲の「リンダ」をリリース
そして、1980年8月5日、24歳の時には、友人の竹内まりやさんが、アン・ルイスさんと桑名正博さんの結婚祝いとしてプレゼントしてくれたという「リンダ」(アン・ルイスさんのミドルネームから)をリリースしています。
(この「リンダ」は、竹内まりやさんが初めて他の歌手に提供した楽曲だったそうです)

「リンダ」を歌唱するアン・ルイスさん。
アン・ルイスは26歳の時に沢田研二作曲・山口百恵作詞の「ラ・セゾン」がオリコンチャート第3位となる大ヒット
その後、アン・ルイスさんは、しばらくの間、育児に専念するため歌手活動を休業していたのですが、
1982年6月5日、26歳の時、「ラ・セゾン」をリリースして復帰すると、いきなり、オリコンチャート第3位となる大ヒットを記録しています。

「ラ・セゾン」
ちなみに、この「ラ・セゾン」は、アン・ルイスさんが憧れていた沢田研二さんが作曲、作詞は友人の三浦百恵(山口百恵)さんが手掛けているのですが、山口百恵さんは、この時、すでに芸能界を引退していたにもかかわらず、友人だったアン・ルイスさんのために、作詞を快諾してくれたのだそうです。
アン・ルイスは26歳の時に「NOBODY」作曲の「LUV-YA」をリリース
そして、1983年2月21日には、マージービートの旗手と呼ばれたロックバンド「NOBODY」に作曲を依頼したシングル「LUV-YA」(編曲は伊藤銀次さん)をリリースすると、

「LUV-YA」
同年3月21日には、Charさんプロデュースで、Charさんほか、ジョニー吉長さん、ルイズルイス加部(加部正義)さんら「ピンク・クラウド」のメンバーをバックバンドに迎えたアルバム「HEAVY MOON」をリリースしています。
アン・ルイスは27歳の時に柴山俊之作詞・大沢誉志幸作曲の「薔薇の奇蹟」をリリース
そんなアン・ルイスさんは、1984年5月1日、27歳の時には、「薔薇の奇蹟」をリリースしているのですが、
実は、この曲は、作詞家の柴山俊之さんに、
”ロマンチック&バイオレンス” をテーマに詩を書いて欲しい
と、自ら依頼して完成したものだったといいます。
(作曲は大沢誉志幸さん、編曲は伊藤銀次さん)
また、テレビ番組に出演した際には、その過激なパフォーマンスが話題となりました。

「薔薇の奇蹟」
アン・ルイスは27歳の時に「六本木心中」が大ヒット
そして、1984年5月1日、27歳の時、24枚目のシングル「六本木心中」(作詞:湯川れい子さん、作曲:NOBODY、編曲:伊藤銀次さん)をリリースすると、リリース直後はそれほど売れなかったそうですが、
有線で火がつくと、29.6万枚を売り上げ、1年以上チャートインし続けるという、ロングヒットを記録したのでした。
(カラオケの定番曲としても人気を博しました)

「六本木心中」
ちなみに、作詞を担当した湯川れい子さんは、歌詞に対する注文が特になかったことから、アン・ルイスさんのイメージを膨らませながら詩を書いたといいます。
アン・ルイスは29歳の時に「あゝ無情」、33歳の時に「WOMAN」が大ヒット
その後も、アン・ルイスさんは、
- 1986年4月21日にリリースした「あゝ無情」(作詞:湯川れい子さん、作曲:NOBODY)

「あゝ無情」 - 1989年9月6日にリリースした「WOMAN」(作詞:石川あゆ子さん、作曲:中崎英也さん)

「WOMAN」
が、大ヒットすると、
特に女性ファンの支持を集め、日本の女性ロックシンガーのさきがけとして不動の地位を確立したのでした。
アン・ルイスは43歳の時にパニック障害により活動を休止していた
以降、アン・ルイスさんは、コンスタントにシングルをリリースしていたのですが、
1995年、39歳頃、パニック障害を患うと、その影響で、1999年、43歳の時には、活動を休止し、しばらくはお父さんの母国であるアメリカに在住していたといいます。
アン・ルイスは49歳の時に「REBIRTH」で音楽活動を再開するもパニック障害の影響で人前で歌うことができなくなっていた
そして、2005年11月23日、49歳の時には、セルフカバー・アルバム「REBIRTH」をリリースすると同時に、音楽活動を再開するのですが・・・
2009年、53歳の時、テレビ番組「独占!金曜日の告白SP」に出演すると、
(10数年ぶりとなるテレビ出演だったそうです)
現在もパニック障害の影響で人前で歌うライブができない
(在住するという意味で)日本に行くことはもうないと思う
と、語っており、
今もなお、パニック障害に苦しんでいることを明かしています。
アン・ルイスは56歳の時に引退していた
それでも、アン・ルイスさんは、その後も断続的に仕事を続けていたのですが、
ついに、2013年4月6日、元夫・桑名正博さんと息子の美勇士(みゅうじ)さんの家族3人で制作したCD「ONE」をリリースすると、同日、美勇士さんにより、引退を発表しています。

「ONE」
ちなみに、美勇士さんによると、同年2月に美勇士さんがロサンゼルスのアン・ルイスさんの自宅を訪れた際、
アン・ルイスさんは、
もうテレビにも出るつもりはない
と、引退の意思を明かしていたそうで、
美勇士さんは、
今はアン・ルイスとは思えない、つつましい暮らしをしています。決意は固そうです。残念ですが完全引退です
と、語っています。
「アン・ルイスの前夫・桑名正博との馴れ初めは?離婚理由は?告別式も不参列?」に続く
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1980年代、「六本木心中」「あゝ無情」「WOMAN」などヒットを連発して、女性を中心に絶大な人気を博し、日本の女性ロックシンガーのさきがけ的存在となった、アン・ルイス(あん るいす)さん。 そんなアン・ルイスさんは、プ …








