1960年、24歳の時、ジャズ評論家として「スイングジャーナル」誌で執筆を開始すると、以降、ラジオのDJ、ワイドショーのコメンテーター、作詞家、翻訳家と幅広い分野でマルチな才能を発揮している、湯川れい子(ゆかわ れいこ)さん。
そんな湯川れい子さんは、中学生の時、しばしば高熱を出して寝ていたそうで、ある時、ラジオから流れてきた進駐軍放送を聴き、たちまち明るいアメリカ音楽に夢中になったそうで、高校2年生の時には、独学でジャズの歴史の勉強を始めると、英語を勉強するために、映画館に通い詰めたそうですが、
この時はまだ、音楽が仕事になるとは思っておらず、女優に憧れ、独立プロの現代俳優協会の研究生になっていたといいます。
今回は、湯川れい子さんの、幼少期(生い立ち)から女優デビューするまでをご紹介します。
湯川れい子のプロフィール
湯川れい子さんは、1936年1月22日生まれ、
東京都目黒区の出身(山形県米沢市育ち)、
血液型はB型、
学歴は、
東京府青山師範学校附属国民学校(現・東京学芸大学附属世田谷小学校)
⇒鷗友学園女子中学校・高等学校卒業
特技は、油絵、
ちなみに、本名は「湯野川和子(ゆのかわ かずこ)」で、結婚後は「田村和子」となり、後に離婚したそうですが、本名は「田村和子」のままにしているそうです。
また、「吾妻麗子」の芸名で、女優としても活動していたこともあったそうです。
そんな湯川れい子さんの家系は軍人一家で、
お父さんは、海軍大佐の湯野川忠一さん、
父・湯野川忠一さんの従姉妹の礼子さんは、元帥海軍大将・山本五十六さんの妻、
大叔父(父方の祖母の弟)は、海軍大将・黒井悌次郎さんです。
湯川れい子さんの家族(中央が湯川れい子さん)。
湯川れい子は幼い頃から音楽に恵まれた環境で育っていた
湯川れい子さんは、海軍の軍人のお父さんと仙台の高等裁判所の裁判官の娘だったお母さんのもと、4人きょうだい(兄2人姉1人)の末っ子として東京で生まれると、
幼い頃(3~4歳)には、満月の夜などに屋敷の広い縁側に出て、お父さんが尺八、お兄さんとお姉さんがピアノ、お母さんがお琴と、みんなで「六段」や「千鳥」などの曲を演奏したり合唱するほか、
春先、梅の花が香る頃には、梅の木の下にござを敷いて、お母さんがお茶をたて、みんなで歌を詠むなど、音楽が好きだったお父さんの影響で、音楽に恵まれた環境で育ったそうです。
湯川れい子は8歳の時に父親と長兄が他界し、次兄も行方不明となっていた
しかし、やがて、戦争が激しくなり、1944年4月、湯川れい子さんが8歳の時には、海軍の軍人だったお父さんが激務により肺炎で他界すると、
18歳年上の一番上のお兄さんも戦死、2番目のお兄さんも特攻隊で出撃したまま行方不明と、一家は悲劇に見舞われたそうです。
湯川れい子は小学3年生の時に学芸会で子守唄「げんげ草」を独唱していた
そんな中、湯川れい子さんは、戦局の悪化に伴い、1944年6月、山形県米沢に疎開すると、戦争中だったため、音楽の授業も運動会もなかったそうですが、
(湯川れい子さんは、1944年6月~1947年3月(小学2年生~小学5年生)までを疎開先の山形県米沢で過ごしたそうです)
「げんげ草」という子守唄だけ教えてもらうと、湯川れい子さんは、小学3年生の学芸会の時に、その「げんげ草」の一番を独唱することになったそうで、お母さんが観に来てくれたそうです。
(それ以来、「げんげ草」は、湯川れい子さんとお母さんにとって、共通の好きな歌になったそうです)
湯川れい子は14~15歳の時にラジオから流れるアメリカ音楽に夢中になっていた
その後、湯川れい子さんは、小学6年生の時に東京に戻ってくると、14~15歳の頃は、しばしば、扁桃腺(へんとうせん)を腫らし、高熱を出して寝ていたそうで、
少し良くなると、本が好きだったことから、本を読んでいたそうですが、また熱がぶり返すため、お母さんから本を読むことを禁止され、全部本を取り上げられてしまったそうです。
そのかわり、お母さんは、枕元にラジオを置いてくれたそうですが、その頃は、本当に音楽がなく、あったとしても、「ガード下の靴みがき」や「星の流れに身を占って」、美空ひばりさんの「悲しき口笛」など、暗い歌謡曲ばかりで、
(お父さんやお兄さんを亡くすという辛い出来事もあり)どうしても好きになれなかったのだそうです。
そんな中、湯川れい子さんが、いい音楽を探そうと、一生懸命チューナーを動かしていると、突然、あふれるような甘い香りのする音楽が流れて来たそうで、それは進駐軍放送だったそうですが、
海軍の軍人だったお父さんは、終戦の前の年に激務による肺炎で亡くなり、18歳年上の一番上のお兄さんも戦死し、2番目のお兄さんも特攻隊で出撃したまままだ帰って来ていなかったことから、
お母さんに申し訳なく思い、お母さんに聴こえないように布団をかぶって聴いていたそうですが、米軍放送は、本当に甘い香りのする音楽で、身体を揺らしながら聴いていると、気分がどんどん良くなっていったのだそうです。
(お母さんは、もともと体が弱く、自分で働いたこともない人だったそうですが、お父さんが亡くなった後は、焼け残った屋敷に学生を下宿させたり、お父さんが好きで集めていた骨董品を売って、湯川れい子さんを必死で育ててくれたそうでです)
湯川れい子が中学高校時代は英語の勉強をするため映画館に通い詰めていた
そんな湯川れい子さんは、同時に、英語でジャズなどのアメリカ音楽を学びたいと思い、英語を学ぼうと決意したそうで、
お弁当持参で映画館に行き、1日4回同じ洋画を鑑賞し、英語を学んだのだそうです。
湯川れい子は高校2年生の時に独学でモダンジャズの歴史を勉強するようになっていた
そして、高校2年生の時には、モダンジャズがアメリカで盛んになり始めたことから、モダンジャズに猛烈に惹かれ、独学でジャズの歴史を勉強するようになったそうで、
同時に、(レコードが欲しくても買えなかったことから)アルバイトでラジオの音楽番組の選曲などもするようになったそうです。
湯川れい子は高校2年生の時に舞台「未亡人」で女優デビューしていた
ただ、湯川れい子さんは、この頃はまだ、音楽が仕事になるとは思っておらず、女優に憧れていたそうで、1953年、高校2年生の時、独立プロの現代俳優協会の研究生になると、日本青年館で開催された舞台「未亡人」で女優デビューを果たし、
- 1954年(18歳)には、「太陽のない街」(山本薩夫監督)
- 1955年(19歳)には、「ここに泉あり」(今井正監督)
- 1955年(19歳)には、「天下の若君漫遊記」(丸根賛太郎監督)
などの映画(いずれも端役)に出演したそうです。
また、芸能プロダクション「土曜会」に所属し、有島一郎さんのまげものコメディ「ありちゃんのおかっぱ侍」というテレビドラマに、芸者・駒子役で短期間レギュラー出演したこともあったそうです。
「湯川れい子の若い頃はビートルズ単独インタビュー!音楽評論家にDJに作詞に著書多数!」に続く
19歳の時に、ジャズ専門誌「スイングジャーナル」に投稿をするようになると反響を呼び、21歳の時には、ジャズの評論の執筆をするようになると、その後は、ラジオの選曲のアルバイトからDJになり、DJの仕事がきっかけで作詞家にな …