1960年、ジャズ評論家としてデビューすると、その後は、ラジオDJとしても活躍するほか、作詞家としても、アンルイスさんの「あゝ無情」「六本木心中」 、中森明菜さんの「SOLITUDE」、小林明子さんの「恋におちて Fall in love」 などの提供曲が大ヒットとなった、湯川れい子(ゆかわ れいこ)さん。

そんな湯川れい子さんは、プライベートでは、結婚を2度、離婚を2度しているのですが、前夫(最初の夫)とは、戸籍上だけの夫婦だったといいます。

今回は、湯川れい子さんの、前夫(最初の夫)との馴れ初めや離婚に至る経緯についてご紹介します。

湯川れい子

「湯川れい子の若い頃はビートルズ単独インタビュー!音楽評論家にDJに作詞に著書多数!」からの続き

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湯川れい子の前夫(最初の夫)との馴れ初めは?

湯川れい子さんは、女優として活動していた1950年代に、8歳年上の進さんという男性(一橋大学卒で当時は銀行員)と結婚していたといいます。

実は、この進さんは、湯川れい子さんが小学6年生の時から実家に下宿しており、お母さんに半ば強制的にお見合いさせられ、婚約させられたのだそうです。

湯川れい子は前夫(最初の夫)との婚約中に知り合った恋人と関西に逃避行していた

ただ、湯川れい子さんには、進さんは”8歳年上のお兄さん”としか感じられず、進さんと婚約していながら、夜な夜な銀座のクラブに繰り出していたそうで、

そんな中、音楽に熱狂する、同世代で浪人中のイケメン・直也さんと知り合うと、直也さんと恋に落ちてしまったそうで、お母さんからの猛反対に遭い、直也さんと関西に逃避行に飛び出したのだそうです。

湯川れい子は前夫(最初の夫)のニューヨーク栄転の際に結婚するも一人日本に残っていた

とはいえ、浪人生だった直也さんにはお金がなく、逃避行はわずか3日で終わったそうで、その後、湯川れい子さんは、東京に戻り、婚約者の進さんと暮らし始めたそうです。

すると、ほどなくして、進さんがニューヨークに栄転することが決まったそうで、海外転勤には、妻帯者である必要があったことから、この時、湯川れい子さんと進さんは結婚したのだそうです。

(ただ、湯川れい子さんは、ニューヨークに渡った進さんにはついていかず、日本に残ったそうです)

湯川れい子は前夫(最初の夫)を頼ってニューヨークに海外旅行していた

ちなみに、当時は、一般人が観光などで海外に気軽に行くことができなかったそうですが、しばらくして、海外旅行が解禁されると、

湯川れい子さんは、かねてより、アメリカに憧れていたことから、1964年には、進さんを頼り、ニューヨークに旅行に行ったそうですが、

進さんからは、

ぼくのウチを使って。僕は友達の部屋で泊まるから。

と、言ってもらったそうで、

湯川れい子さんは、進さんの自宅に一人で泊まり、アメリカ旅行を満喫してそのまま帰国したそうです。

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湯川れい子は前夫(最初の夫)と1年の話し合いの末に離婚していた

実は、湯川れい子さんは、仕事でインタビューを受けるたびに、

未婚です

と、嘘をついていたそうで、

その度に、進さんに対して申し訳なく思い、そのことが苦痛になっていたそうで、帰国後、進さんとの離婚を真剣に考え、この年(1964年)、進さんに離婚してほしいとの手紙を書いたそうです。

すると、進さんの伯父さんに間に立ってもらい、話し合いは1年ほどかかったそうですが、1966年、離婚が成立したのだそうです。

ちなみに、湯川れい子さんの銀行口座には、進さんの勤める銀行から家族手当が振り込まれていたそうですが、湯川れい子さんは一切手をつけずにいたそうで、

離婚後は、それをすべて進さんに返し、いくばくかの慰謝料も湯川れい子さんが支払うことで決着したのだそうです。

ちなみに、湯川れい子さんは、

あの直也はもうこの世にいない。私が初めて愛した人。私をジャズの世界に導き、結果的に音楽評論家への道を開いてくれた人。きっとまた、あの世で会えるよね。

進さんも他界した。進さんには本当に悪いことをしたと思っている。夫婦らしいことは何もしなかった。私と離婚した後、別の女性と結婚して幸せな人生を歩んだと聞いている。

仏壇に向かうといつも進さんに心で言う。「ごめんなさい。ありがとう」。

と、語っています。

(湯川れい子さんは、進さんと婚姻中、一度も夫婦生活を持たなかったそうです)

「湯川れい子の再婚相手(2番目の夫)との馴れ初めは?エルビスプレスリーが結婚の証人だった!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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