19歳の時に、ジャズ専門誌「スイングジャーナル」に投稿をするようになると反響を呼び、21歳の時には、ジャズの評論の執筆をするようになると、その後は、ラジオの選曲のアルバイトからDJになり、DJの仕事がきっかけで作詞家になるなど、様々な分野で活躍した、湯川れい子(ゆかわ れいこ)さん。

そんな湯川れい子さんは、ビートルズが来日した際には、単独インタビューにも成功していたといいます。

今回は、湯川れい子さんの、若い頃(ジャズ評論家デビュー以降)からの経歴や著書をご紹介します。

湯川れい子

「湯川れい子の生い立ちは?中学でアメリカ音楽に夢中!高校で女優デビューしていた!」からの続き

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湯川れい子は21歳の時にジャズ専門誌への投稿がきっかけで評論の執筆を始めていた

湯川れい子さんは、19歳の時、ジャズ専門誌「スイングジャーナル」の読者論壇に投稿するようになったそうですが、何回か投稿すると、ファンレターがいっぱい来るようになったそうで、

このことがきっかけで、編集者の岩浪洋三さんに、

本格的に書いてみないか?

と誘われ、21歳の時、ジャズの評論の執筆を本格的に始めたそうです。

(この頃はまだ、評論家という職業が確立していなかったため、名前はなかったそうです)

ちなみに、湯川れい子さんは、その経緯について、

(「仕事をしようと思って投稿を始めたのか」という質問に対し)ううん。全然そんな・・・。それが仕事としてあると思わないから。

植草甚一先生とか、油井正一先生とか、戦前からのジャズ評論家は恐ろしい先生方がいらっしゃいましたけど(笑)、自分がそんな風になれると思わないじゃないですか、19か20歳で。

でも、すごく言いたいことがいっぱいあって(笑)。「このサキソフォン奏者はすごいよ」とか、そういうことを言いたくて。それを読者論壇で出してたら、やっぱりそういう格式のある先生方がお書きになるものと、全然言葉も違うし・・・

感性も違うし。それで女の子だしね。珍しかったんでしょうね。

と、語っています。

(湯川れい子さんは、この頃、女優として活動していたのですが、お金にならず、また、自身に女優としての才能があるとは思えなかったことから、好き勝手に書いていたジャズの評論の方に手応えを感じたこともあり、ジャズの評論家の道に進んだのだそうです)

湯川れい子は24歳の時にラジオDJの仕事もするようになっていた

また、湯川れい子さんは、同じ頃、アルバイトで始めたラジオの音楽番組の選曲の仕事から、ラジオのDJとしても活動するようになったそうですが、

ちょうどその頃は、1960年代になってテレビがとても盛んになった時期で、特にテレビの音楽番組は大変な人気で、注目も経費も視聴率も全部テレビに行ってしまったことから、ラジオの制作費がなくなり、それまでのように、ラジオにお金をかけて番組を作ることができなくなったそうで、

そのため、選曲係もDJも一緒くたになってしまい、湯川れい子さんのような人や、大橋巨泉さん、前田武彦さん、青島幸男さんなど、台本を書いていた人達もDJをやるようになったのだそうです。

(湯川れい子さんは、選曲のほか、トークも全部自分で考えていたそうです)

湯川れい子は29歳の時に「涙の太陽」(英語詞)で作詞家デビューもしていた

そんな湯川れい子さんは、評論やラジオのDJ以外にも、1965年、29歳の時には、エミー・ジャクソンさんが歌った「涙の太陽」(英語詞)で作詞家としてもデビューしています。

実は、エミー・ジャクソンさんは、湯川れい子さんが担当していたラジオ番組のアシスタントDJ(バイリンガル)で、歌が上手かったことから、「涙の太陽」という歌を出すことになったそうですが、

レコーディングの現場で、いきなり、

英語で詞を書いてくれない?

と、頼まれたそうで、

(エミー・ジャクソンさんは、英語は話せても、詞は書けなかったそうです)

湯川れい子さんが10分~15分で書き上げるとこれが大ヒットしたのだそうです。

(湯川れい子さんは、作詞は小さい頃から好きで、6歳の時には、「若蛙」という歌を詠んだそうです)

すると、今度は、この「涙の太陽」を青山ミチさんが日本語で歌うことになり、日本語詞を依頼されたそうで、「♪ギーラギーラ~太陽が・・・」という日本語詞も書いたのだそうです。

(ちなみに、英語の作詞は、メインの仕事の合間にやる仕事で、時々やる程度だったそうで、正式な作詞家デビューは、シャネルズの「ランナウェイ」(1984年)だそうです)

湯川れい子は30歳の時にビートルズの単独インタビューに成功していた

また、湯川れい子さんは、1966年6月29日、ビートルズが来日した際、

ビートルズが欲しがっていたという警備腕章をビートルズに届けるという名目で、ビートルズが泊まっている東京ヒルトンホテルの客室の10階に、7月2日の夜に行き、ビートルズの単独インタビューに成功したそうですが、

湯川れい子さんがホテルの部屋に入り、インタビューをすると、ポール・マッカートニーさんがその場を取り仕切る中、ジョン・レノンさんは細長いソファの隅でそっぽを向いて座っており、

ジョージ・ハリスンさんはマイペースに質問に答え、最も遅くメンバーに加わったリンゴ・スターさんは、他の3人を気遣うように終始言葉少なだったといいます。

そして、湯川れい子さんが最後に、

誰かと1枚写真を撮ってもらえますか

と、頼むと、

ポール・マッカートニーさんが、

誰と記念写真を撮りたいの?

と、応じてくれたことから、

湯川れい子さんが、

リンゴ・スターさん

と、答えると、

ポール・マッカートニーさんは、

ジョージ、彼女のためにシャッターを押してあげてよ

と、ジョージ・ハリスンさんにカメラをポンと手渡したそうです。

湯川れい子とリンゴ・スター
湯川れい子さんとリンゴ・スターさん。

ちなみに、湯川れい子さんは、その時のことを、

実際の4人は、あのまんまという感じでしたね。私と同年代の実にチャーミングな青年たちでした。でも、ジョンだけはちゃんと答えてくれなかったので、少し嫌な感じでしたね。

と、語っているのですが、

後年、湯川れい子さんが、ジョン・レノンさんに会った際、

あの時は・・・

と、口にすると、

ジョン・レノンさんは、その先の言葉を遮るように、

行く先々で騒がれ過ぎてもう辟易(へきえき)していたんだ。僕たちに会いに来られるのは、権力者ばかりだし。嫌な思いをさせてゴメン

と、謝ってくれたそうです。

湯川れい子は30歳の時にビートルズに出会ったことで評論家の仕事を続けていく決意を固めていた

実は、湯川れい子さんは、この頃、楽しくて始めたはずのジャズの評論という仕事が、次第に理論武装に走り、違和感を感じ始めていたそうですが、

そんな時にビートルズが来日し、ビートルズには、

あんなの音楽じゃない

武道館貸すな

ロックを聴くと不良になる

などの社会的な批判があった一方で、

ビートルズを一目見たいと思い、毎日のように全国から少年少女が東京に集まり、何百人もが補導されているような3日間を目の当たりにし、

楽しいから熱狂する、かっこいいから飛びつきたくなるという、そんな方向性の持たないエネルギーや純粋な気持ちが伝わって来たそうで、

それは、子供を不良にするとかしないという問題ではなく、もっと、人間の本質的な、命、自由などといったものに深く関わっているものなのではと思い、

それからは、自分はこれからもずっと、言葉にならない音楽というものを伝えていく仕事をしようと思ったそうで、

湯川れい子さんは、そのことについて、

自分は高校しか卒業してないし、大学も出てないし、音楽的な素養もないし、それがコンプレックスで、国立音大の聴講生やなんかになったりしてたんですけど「それは違う」ってことをその時に確信しまして。

それを自分の皮膚感覚のままに、感性っていうか、心のままに伝え続けていくこと。どんな時でも好きな音楽を聴けるってことは、リトマス試験紙なんだっていう風に思うことができたもんですから。そこから思い定まりましたね。

と、語っています。

湯川れい子は36歳の時に音楽療法にも取り組むようになっていた

そんな湯川れい子さんは、1972年、36歳頃より、音楽療法についても関心を深めたそうで、

音楽が人の成長期や命そのものとどう関わってきたのかなど、広く音楽療法の普及活動にも取り組むほか、反核運動や環境保護運動などにも携わっているとのことです。

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湯川れい子の本(著書、翻訳)一覧

それでは、最後に、湯川れい子さんの主な本(著書、翻訳)をご紹介しましょう。

著書(単著)

著書(共著)

  • 「ジャズをたのしむ本」(1961年、久保書店)※寺山修司さんと共著
  • 「音楽力」(2004年、海竜社)※日野原重明さんと共著
  • 「I LOVE POPS」(2011年、小学館)※かまち潤さんと共著

翻訳

など、数多くの著書を出版しています。

「湯川れい子の前夫(最初の夫)との離婚理由は?婚約中に恋人と逃避行?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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