1978年11月、ファーストシングル「戻っておいで・私の時間」でデビューすると、「September」「不思議なピーチパイ」などがヒットし、

結婚後は、作曲家・作詞家としても、「元気を出して」「駅」など数々の作品をほかのアーティストに提供するほか、1984年には、シンガーソングライターとして活動を再開した、竹内まりや(たけうち まりや)さん。

そんな竹内まりやさんは、幼い頃から、音楽好きな両親のもと、音楽に恵まれた環境で育ったそうで、9歳の時には、初来日したビートルズのCMを見て衝撃を受けたそうですが、

中学・高校時代には、ビートルズの記事を読むうち、洋楽のいろいろなアーティストに会ってインタビューをしたいと音楽雑誌の編集者に憧れるようになっていったといいます。

竹内まりや

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竹内まりやのプロフィール

竹内まりやさんは、1955年3月20日生まれ、
島根県簸川郡大社町杵築南(現・出雲市大社町杵築南)の出身、

身長165センチ、

血液型はA型、

学歴は、
大社町立大社小学校
⇒大社町立大社中学校
⇒島根県立大社高校
⇒慶應義塾大学文学部英米文学専攻(中退)

趣味は料理、

ちなみに、「竹内まりや」は本名で、結婚後は「山下まりや」です。

また、「まりや」という珍しい名前は、お父さんが、4人姉妹のうち1人ぐらいは外国でも通用する名前にしようと名付けたそうで、「まりあ」ではなく「まりや」なのは、字面的に収まりが良いとお父さんが感じたからだそうです。

(ほかの3姉妹は、「~子」と日本的な名前なのだそうです)

竹内まりやの幼少期は音楽好きの両親のもと音楽に恵まれた環境で育っていた

竹内まりやさんは、出雲市大社町で老舗旅館「竹野屋旅館」を経営する、4代目のお父さん・竹内繁蔵さんのもと6人きょうだい(2男4女)の第4子で三女として誕生すると、

幼い頃は、両親が音楽好きだったことから、常にいろいろな音楽が流れている、音楽に恵まれた環境で育ったそうです。

竹内まりやは小学生の時はピアノを習い始めるも歌うことが好きだった

そんな竹内まりやさんは、幼い頃に、ピアノを習い始めたそうですが、ピアノを弾くよりも歌を歌うことが好きだったそうで、小学生の時には、毎日、家に帰ると、レコードに合わせて歌っていたそうです。

また、仲居さんたちを集めて、一つ上のお姉さんと庭の石段の高い所に立って、「ザ・ピーナッツ」の歌を歌ったこともあったそうです。

竹内まりやは9歳の時に「ビートルズ」の全てに衝撃を受けていた

そして、竹内まりやさんが9歳の時、ビートルズが初来日したそうですが、

CMで「ビートルズ」を見て、音楽はもちろん、スーツを着た4人の姿、歌詞、英語など全てのことに、言葉では言い表せないほどの衝撃を受けたそうで、

この時、英語を話せるようになってイギリスに行きたいという夢も生まれたのだそうです。

竹内まりやは中学時代は音楽雑誌の編集者に憧れていた

そんな竹内まりやさんですが、中学校時代は、軟式テニス部に所属し、テニスの練習漬けの毎日だったことから、幼い頃から習っていたピアノはやめてしまったそうです。

ただ、ギターで弾き語りをしていたお兄さんの影響で、ピアノの弾き語りを始めたほか、音楽雑誌「ミュージック・ライフ」で「ビートルズ」の記事をよく読んでいたそうで、

その影響により、洋楽のいろいろなアーティストに会ってインタビューをしたいと夢見るようになったそうです。

(「ミュージック・ライフ」で音楽の様々な知識を得るうち、編集長の星加ルミ子さんに憧れるようになったそうです)

竹内まりやは高校3年生の時にアメリカに1年間留学していた

こうして、竹内まりやさんは、高校進学後は、海外留学することを決意すると、1972年、高校3年の時には、AFS交換留学生として、1年間、アメリカ・イリノイ州 ロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクールに留学したそうで、

竹内まりやさんは、

どうしても海の外に行きたくて。元々はイギリスに行きたかったんですけど、そういう留学制度はなかったので。

で、そのアメリカの田舎町に1年、いたんですけど。それもやっぱり自分にとってはすごく大きい体験でした。もうみんながいい人たちばっかりで。本当に。

向こうでの生活があまりにも……ミニスカートとか。男の子たちはみんなロン毛で車運転してっていうような生活から、もうまた黒い制服とおさげ髪っていう。まあその落差が逆に楽しかったとも言えますけどね。

などと、語っています。

竹内まりや
高校時代の竹内まりやさん。

竹内まりやは大学在学中に音楽活動を本格的に開始していた

また、竹内まりやさんは、留学という自由な1年をもらえたことから、次の半年は何が何でも勉強して大学に受かろうと受験勉強に励んだそうで、1974年には、見事、慶応大学文学部英文学科に合格。

大学進学後は、音楽サークル「リアルマッコイズ」に参加すると、サークルの先輩だった杉真理さんのバンド「PEOPLE(ピープル)」に加入し、キーボードとバック・コーラスを担当すると、

杉真理さんのレコーディングに参加したのがきっかけで、1978年3月、オムニバス・アルバム「ロフト・セッションズ」にも参加しています。

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竹内まりやは23歳の時に「戻っておいで・私の時間」で歌手デビュー

そんな竹内まりやさんは、1978年11月、23歳の時には、ファーストシングル「戻っておいで・私の時間」で歌手デビューしています。

「戻っておいで・私の時間」
「戻っておいで・私の時間」

竹内まりやは24歳の時に「SEPTEMBER」がヒットし日本レコード大賞新人賞を受賞

すると、1979年8月21日にリリースした3枚目のシングル「SEPTEMBER」がヒットし、「第21回日本レコード大賞」新人賞を受賞しています。

「SEPTEMBER」
「SEPTEMBER」

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竹内まりやは24歳の時に4枚目のシングル「不思議なピーチパイ」が40万枚を売り上げる大ヒットを記録

そして、1980年には、4枚目のシングル「不思議なピーチパイ」(1980年2月5日)をリリースすると、累計売上40万枚を超える大ヒットを記録し、竹内まりやさんは、瞬く間にスターダムに駆け上ったのでした。

「竹内まりやの夫・山下達郎との馴れ初めは?現在の夫婦仲は?子供(娘)は山下えり!」に続く

「不思議なピーチパイ」
「不思議なピーチパイ」

お読みいただきありがとうございました

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