詩人、歌手、画家、俳優として、幅広い分野で活動されている、友川カズキ(ともかわ かずき)さん。ナインティナインの岡村隆史さんがファンを公言されていることで、若い世代にも知名度が高まりました。


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プロフィール!

友川さんは、1950年2月16日生まれ、
秋田県山本郡八竜村(現在は三種町)のご出身です。

好きなものは、
寿司屋のガリ、お酒、競輪、

出身高校は、
能代工業高等学校、

本名は、及位典司(のぞき てんじ)さん、
というそうです。

文学青年だった

友川さんは、中学生の頃、
図書館で偶然見つけた、

中原中也の詩「骨」に衝撃を受け、
詩を書き始められたそうです。

中学校卒業後は、
バスケットボールの名門高校へ進学。

バスケ部のマネージャーとして活動する一方で、
太宰治や小林秀雄などの本を読破する、
文学青年だったようです。

フォークシンガー!

その後、友川さんが20歳の頃、
日本ではフォークソングブーム真っ只中。

友川さんも例にもれず影響を受けられ、
独学でギターを学び、
フォークシンガーを目指されたのでした。

そして、25歳の時、
ファースト・アルバム「やっと一枚目」で、
念願のデビューを果たされています。

その後、ロックバンド、
「頭脳警察」のメンバーと知り合われ、

意気投合されたことから、
音楽的パートナーとなられます。

さらに、25歳~30歳くらいの時には、
俳優として、舞台に出演したり、
劇中歌を手がけられるなど、
表現の場を広げて行かれたのでした。

中原中也の詩に曲をつける

友川さんは、中学生の頃、
中原中也の詩に出会い、
詩を書き始められたのですが、

その後、友川さんの表現手段は、
詩ではなく、音楽に移行していきます。

つまり、中也の詩に曲をつけられたのです。

しかし、「骨」という詩だけは、
曲をつけられずにいるのだとか。

それは、

「ホラホラ、これが僕の骨だ」

という、この詩のフレーズに、
あまりにも衝撃を受けられたからでした。

友川さんは、そのことについて、

晴天の霹靂とはああいうのを言うんでしょう。
すごい言葉だといまだに思います。

言葉の持つ凄さもそうですが、
発した人間の凄さ。
いろいろと私の中で変化したりはしましたが色褪せない。

と、おっしゃっていました。

フォークシンガーを目指した理由

友川さんは、20歳の頃、
大学へは進学せずに、
土木作業員の仕事をされていたようです。

そのため、友川さんは、
学生運動とは縁がなかったのですが、
同世代の音楽の熱気は感じておられたそうです。

そんな折、反戦フォークの旗手だった、
岡林信康さんの歌を聴いて、
フォークシンガーを目指されます。

当然、土木作業員で、
一生を終わる気持ちはなかったそうですが、

かと言って、何かをやりたいけど、
何をやればいいのか分からない、

そんな、悶々とした日々を送っておられたとき、
岡林さんのフォークソングで目覚められたのでした。

友川さんはそのことについて、

「今日の仕事はつらかった」とか、
日常の言葉で歌っていて・・・

それまでのフォークソングは嫌いで、
「野原いっぱい花が咲いた」とか、
わざわざ歌にする必要はないだろうと思っていましたから。

でも、仕事がつらかったとか、
そういうのだって詩になるし、

直接的な言葉にメロディをつけて、
人前で歌っていいんだというのがわかった。
だから勇気が出ましたね。

と、もともとは嫌いだったフォークソングを、
別の視点から観ることができるようになったようです。

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俳優として

また、1983年の大島渚監督の映画、
「戦場のメリークリスマス」では、
ヨノイ大尉役をオファーされていたにもかかわらず、

秋田弁を直すことを求められたことから、
オファーを断られていたとか。

そんな強いこだわりを持って、
生きてこられた友川さんですが、

2016年4月から始まる、
テレビドラマ「毒島ゆり子のせきらら日記」では、
豊三郎役を演じられます。

「深夜の昼ドラ」を目指していると言われているほど、
恋愛のドロドロした部分を描いたドラマということなので、

今度は、友川さんの強いこだわりと、
一致したのでしょうか?

それとも、年を重ねることで丸くなり、
納得いかない役でも引き受けられたのか。

どちらにせよ、友川さんの濃いキャラが、
劇中でどのように表現されるのか、
とても興味深いですね♪

このドラマ、要チェックです!!

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