中西太は阪神監督辞任を田中隆造オーナーの意向で取り消していた!
1980年10月11日、阪神タイガースの監督を辞することを表明するも、10月14日、小津正次郎阪神球団社長との会談後は、態度を保留した、中西太(なかにし ふとし)さんは、10月16日、小津社長と2度目の会談後、監督続投が決定しているのですが・・・
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1980年10月11日、阪神タイガースの監督を辞することを表明するも、10月14日、小津正次郎阪神球団社長との会談後は、態度を保留した、中西太(なかにし ふとし)さんは、10月16日、小津社長と2度目の会談後、監督続投が決定しているのですが・・・
1982年、1983年と、西武ライオンズの日本一に大きく貢献した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、1984年も、4月には、リーグトップの27打点を記録したそうですが(打率2割8分6厘、5本塁打)、2年前から症状が出始めていた花粉症がひど・・・
1968年に阪神タイガースに入団して以来、1978年までの10年間で、球団史上最多本塁打となる通算320本塁打を放ち、ミスタータイガースと呼ばれていたにもかかわらず、1978年には、まさかのトレードを通告された、田淵幸一(たぶち こういち)・・・
前年まで、優勝(日本一)、2位、優勝、というチームを受け継ぎながら、2年間優勝出来ず、ファンや評論家から監督としての資質を疑問視する声があがっていた、王貞治(おう さだはる)さんですが、そんな中迎えた1985年秋のドラフト会議では、PL学園・・・
1984年、監督、コーチ、主力が参加する朝食会で何気なく言った言葉が、広岡達朗監督の気分を害し、いよいよペナントレースの山場という時に二軍に落とされると、それっきり一軍に呼ばれなかったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、前年まで5年連続・・・
日本ハムファイターズで父親のように思っていた大沢啓二監督が勇退し、フロント入りすることになったことから、自宅に挨拶しに行くと、なんと、「お前を広島から取ったのは俺だ。俺が辞めるんだから、おまえも辞めろ」「おまえの次の就職先は俺が見つけてやる・・・
南海ホークス移籍1年目の1976年、痛めていた肩と肘の影響で成績がパッとしなかった、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、2年目の1977年には、野村克也監督からリリーフ転向を打診されたそうですが、なかなか納得いかず、1ヶ月ほどはリリーフをやるや・・・
阪神では9年間で、最多勝2回、奪三振王6回などの活躍で159勝をあげるも、1975年のシーズン終了後には、週刊誌の記事で、南海にトレードさせられることを知ったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、引退することも考えたそうですが、南海の野村・・・
阪神では9年間で159勝をあげるなど多大な貢献をするも、1976年には、まさかのトレードを通告された、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、なぜ、トレードされることになったのでしょうか。今回は、いくつか考えられている理由をご紹介します。
前年1965年のドラフト会議で、阪神が当初の予定通り、鈴木啓示さんを指名していれば、阪神に指名されることはなく、阪神入団もなかったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、いよいよ、阪神と契約を交わし、契約金をもらうと、背番号も仮の番号か・・・
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