高校1年生の時、「俳優養成所」に入所して以来、60年以上も芸能界で活動した、愛川欽也(あいかわ きんや)さん。今回は、そんな愛川さんのルーツである両親をご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?

愛川さんは、1934年6月25日生まれ、
東京府東京市豊島区巣鴨(現・東京都豊島区巣鴨)の出身、

身長168センチ、
体重は72.5キロ、

血液型はA型、

学歴は、
仰高(ぎょうこう)国民学校
⇒上田市立北国民学校(疎開先)
⇒埼玉県立浦和高等学校中退

趣味は、絵画、住宅研究、旅行、ゴルフ、

特技は、ハーモニカ、ドラム、

だそうです。

本名は?芸名の由来は?

愛川さんの本名は「井川敏明(いかわ としあき)」なのですが、「俳優座」卒業と同時にホームドラマに初出演した際の役名が「愛川欽也」だったそうで、

この役が、当初は不良少年も、最後には更生して真面目に生きていく役柄で、この役柄が好きだったことや、何かピンと来るものがあったそうで、そのまま、この役名を自分の芸名としてもらうことにしたのだそうです。

ちなみに、愛称は「キンキン」です。

母親は天涯孤独だった

愛川さんのお母さんのみいさんは、茨城県の鹿島というところで生まれると、19歳の時、大地主の長男と結婚をしたそうですが、夫がたった2年で「結核」で他界したそうで、

貧農の出だったみいさんとの結婚に反対していた舅(しゅうと)に、息子が死んだのは嫁の看病が悪かったせいだと村中に言いふらされ、わずかな手切れ金を渡されて追い払われてしまったそうです。

ただ、みいさんは、3歳の時にお父さんが他界、お母さんもみいさんの花嫁姿を見た後、すぐに亡くなってしまっており、帰る場所がなかったことから、

(しかも、近所の人たちには”呪われている”と言って避けられ、故郷には親しい人もいなかったそうです)

わずかなお金を手に仕事を求めて東京へ向かうと、質屋での住み込みの女中、新橋の飲み屋「烏森(からすもり)」での勤務を経て、神田のミルクホール(軽食屋)でウエイトレスとして働いたのだそうです。

父親は印刷会社の社長も・・・

すると、そんなある時(1932年、28歳の時)、ミルクホールに客として来ていた印刷会社の社長・善三さんに見初められて交際を始めると、その後、東京・巣鴨に家を借りて一人暮らしを始め、善三さんが足繁く通うようになったそうですが、

(善三さんは、小柄で色白のふっくらした顔立ちのみいさんに惹かれたのだそうです)

家族の縁に恵まれず、幼い頃から貧しい生活を強いられてきたみいさんは、年の離れた善三さん(当時すでに50歳近かったそうです)に安心してすがることのできるこの生活が嬉しかったそうです。

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母親は父親の愛人だった

とはいえ、善三さんは、すでに家庭を持つ身。

善三さんは、

なるべく早く、五反田の家とは別れて、みいさんときちんと籍をいれて夫婦になるつもりだ

などと、みいさんとの将来を度々口にするも、なかなか入籍には至らなかったそうで、

ある時、みいさんが意を決し、いつ籍を入れてくれるのかと尋ねると、

善三さんは、

そうだな.・・・みいさんに子供ができた時かな

と、答えたそうですが、

ほどなくして、みいさんの妊娠がわかるも、善三さんは複雑な表情をしたといいます。

(ただ、みいさんは、善三さんと本当の夫婦になれる、人生が変わると、喜びのあまり、その表情を読み取ることができなかったそうです)

「愛川欽也の生い立ちは?母親から溺愛されて育っていた!」に続く

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