1952年、映画「殺人容疑者」でデビューされ、1963年、映画「丹下左膳」とテレビ時代劇「三匹の侍」で、一躍トップスターとなられた、丹波哲郎(たんば てつろう)さん。当初はハードボイルドな演技で人気を博しましたが、次第に深みのある演技が高く評価されるようになり、演技派俳優としての地位を確立されました。


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出身は?身長は?本名は?

丹波さんは、1922年7月17日生まれ、
東京府豊多摩郡大久保町(東京都新宿区)のご出身、

身長175センチ、

血液型はO型、

本名は、
丹波 正三郎(たんば しょうざぶろう)、

出身大学は、
中央大学法学部予科、

だそうです。

俳優への道

丹波さんは、大学在学中、
学徒出陣し陸軍に入隊されたそうですが、
(※学徒出陣とは、学生が出征すること)

日本が敗戦すると、大学に復学。
学業の傍ら、GHQの通訳を務められ、
1948年、大学を卒業されています。

そして、同年、「油糧砂糖配給公団」に、
就職するも、俳優を目指し退職。

翌年の1949年には、
国際映画演劇研究所の第1期生となられると、

1950年、劇団文化座の、
「さくらんぼ大将」に、校長先生の役で舞台デビュー。

しかし、1951年には、
早くも劇団文化座を退団し、
新東宝に入社されると、

1952年、「殺人容疑者」で、
映画デビューを果たされたのでした。

「殺人容疑者」より。左が丹波さん。

敵役で活躍後、一躍トップスターへ

以降、丹波さんは、陰のある二枚目として、
主に敵役や悪役で活躍されるのですが、

主演作には恵まれず、
1959年、フリーとなられます。

そして、その後もしばらくは、
脇役の敵役が続くのですが、

フジテレビのディレクターだった、
五社英雄さんに見出され、

1960年 テレビドラマ「トップ屋」
1961年 映画「霧と影」「白昼の無頼漢」「豚と軍艦」
1963年 映画「丹下左膳」
      テレビ時代劇「三匹の侍」

「霧と影」より。

と、立て続けに主演に抜擢!

特に、「三匹の侍」では、
かつて、テレビ時代劇ではなかった、
豪快な殺陣や濃厚なラブシーンが話題となり、

丹波さんは、一躍、
スターダムへと駆け上られたのでした。

「三匹の侍」より。(左から)長門勇さん、
丹波さん、平幹二朗さん。

「007」でショーン・コネリーと共演

そんな丹波さんは、1967年には、
イギリスの人気テレビドラマシリーズ、
「007は二度死ぬ」で、

日本の情報機関のボス、タイガー田中役を演じ、
ショーン・コネリーさんと共演。

「007は二度死ぬ」より。ショーン・コネリーさんと丹波さん。

丹波さんはここでも、
貫禄のある演技を披露し、

国際的にも広く、
その名を知られるようになられています。

「キイハンター」

そして、翌年の1968年には、
TBS土曜夜9時のテレビドラマ「キイハンター」で、
主人公、黒木鉄也役を演じられ、
最高視聴率30%を超える大ヒットを記録。

「キイハンター」より。(左から)丹波さん、
谷隼人さん、野際陽子さん、大川栄子さん、千葉真一さん。

その後も、丹波さんは、

1973年「アイフル大作戦」
1974年「バーディ大作戦」
1975年「Gメン’75」

「Gメン’75」より。(左から)宮内洋さん、中島はるみさん、
若林豪さん、丹波さん、川津祐介さん、千葉裕さん、伊吹剛さん。

と、土曜日夜9時の顔として、
活躍されたのでした。

また、そんな中、

1973年「人間革命」
1974年「砂の器」
1976年「不毛地帯」
1980年「二百三高地」

「砂の器」より。丹波さんと森田健作さん。

1981年「連合艦隊」
1982年「大日本帝国」
1984年「修羅の群れ」
1986年「最後の博徒」

「連合艦隊」より。

など、映画にも次々と出演し、
スケールの大きな演技を披露。

丹波さんは、アクション俳優から脱し、
演技派俳優としての地位を確立されたのでした。

死後の世界の研究

ところで、丹波さんは、
俳優として成功を収められた一方で、

ライフワークとして、
死後の世界を研究されています。

そのきっかけとなったのは、
友達の死だったそうで、

丹波さんは、その時のことを振り返り、

その友人は癌に冒されて、
苦しみ抜いた挙げ句に亡くなったのだが、

私はその様子を目の当たりにしただけに、
死に様の余りのみじめさに心をふさがれるような思いをした。

傷ましくて傷ましくて目をふさぎたくなるような思いに、
何度となくとらえられた。そのときに、つくづくと考えたのである。

死というのは、誰にでも必ず一度は訪れるのだから、
もっと楽に、もっと「カッコよく」死ねないものだろうか。

まして、自分は、いわば、
常に「カッコよさ」を売り物にする俳優である。

あんなふうに、みじめに騒いで騒いで死ぬのは厭である。
だいいち、みっともない。とにかく、もっと気持よく、
もっと「カッコよく」死ぬ方法はないだろうかと。

と、明かされています。

こうして、丹波さんは、友人の死から5年ほどたった、
1970年頃から、霊界の研究を始められると、
1977年、「丹波企画」を設立。

原田雄一監督とともに、霊界をテーマにした、
長編映画「砂の小舟」を制作し、
カンヌ国際映画祭に持ち込まれるのですが、買い手がつかず、

また、事情は分かりませんでしたが、
日本でも上演はされませんでした。

大霊界

しかし、丹波さんは、
その後も霊界の研究を続けられ、

1989年、丹波さんが、
製作、原案、脚本、総監督すべてを務められた、
映画「丹波哲郎の大霊界・死んだらどうなる」
が発表されると、たちまち大ヒットを記録!

「丹波哲郎の大霊界・死んだらどうなる」

丹波さんは、この当時、
バラエティ番組にも出演されており、

映画俳優としての活躍を知らない若い世代にも、
その豪快なキャラクターが人気を博していたことが、
映画の大ヒットに繋がったと言われています。

そして、翌年の1990年には、
続編「丹波哲郎の大霊界2・死んだらおどろいた!!」
も制作されたほか、

「丹波哲郎の大霊界2・死んだらおどろいた!!」

霊界の研究の他に催眠術も研究され、
「霊界の宣伝マン」として、
啓蒙活動を行われたのでした。

ちなみに、丹波さんご自身は、
それほど霊感は強くなかったそうですが、

ロンドンのホテルで、
複数の中国人女性の霊を目撃したことがあり、
死後の世界があると、確信されていたそうです。

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死因は?霊界通信とは?

そんな丹波さんも、2006年、84歳で、
肺炎のため、東京都三鷹市の病院で他界され、
死後の世界に行かれた訳ですが、

生前、丹波さんと親交があり、告別式に参加された、
スピリチュアリストの江原啓之さんは、

自らの棺に腰掛けて足を組み、
参列者をニコニコしながら眺めている丹波さんの霊を見て、
笑いを堪えるのに苦労した。

と、死後の丹波さんの様子を明かされていました♪

丹波さんは、亡くなる前、

「霊界はすばらしいところ」

と言われていたそうで、丹波さんには、
すでに、あちらの世界が見えていたのかもしれませんね。

また、丹波さんと25年もの間、
親交があった、霊能者の稲川りよ子さんは、

丹波さんと、生前、亡くなった後に、
霊界通信を送るという約束をされていたようで、

霊界の丹波さんから、

人は、人生を頑張って生きれば、死んだ後(のち)には、
必ずや素晴らしい世界に入れるということを、
何が何でも知って欲しかったのです。

人生で戒めや畏れがなければ、やりたい放題、
悪いことでも、かっぱらいでもなんでもありと思うだろうから、
宗教は戒律をつくり、あの世に地獄と極楽をつくってきました。

しかし、そのような脅迫で、
人の心が真から向上するということが、
果たしてあるだろうかと私は考えるのです。

人が人生を一生懸命に頑張って生きたのちには、
喜びと安心感がなければ、何のために頑張るのか、
わからなくなるでしょう。

その安心感のもとに、余裕を持って人のために尽くし、
優しくいられれば、自分の心も安らぎ、
必ずや安心の世界へ入れると言うことを、
今、確信を持って、みなさんに伝えたいのです。

世のため、人のために尽くし、
明るい笑顔で人生を頑張ったのちには、
それに見合った素晴らしい世界があります。

という旨のメッセージが、
送られてきたそうです。

さて、いかがでしたでしょうか?

「かっこよく死にたい」との言葉どおり、
爽やかに他界された丹波さん。

丹波さんを見ていると、
「死に方とは、すなわち生き方である」
とおっしゃっているような気がしますね。

これをきっかけに、改めて、
自分の生き方を考えてみるのも良いかもしれません。

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