終戦後は、半分追い出されるように、お母さんと茨城県東茨城郡圷(あくつ)村の親戚の家を出て、今度は秋田県湯沢の親戚の家に居候させてもらうことになった、愛川欽也(あいかわ きんや)さんですが、ここでも快適とは程遠い生活を強いられたといいます。

「愛川欽也は終戦後は家が焼け秋田で居候生活をしていた!」からの続き

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部屋が臭くてたまらなかった

東京・巣鴨の家が燃えてなくなったことから、終戦後も東京に戻ることができず、秋田県の湯沢にあるお母さんの遠い親戚の家に居候することになった愛川さん親子は、

土間でできた台所の先にある、昔使用人が寝泊まりしていたという6畳の部屋を使わせてもらえることになったそうですが、

土間が続くその先の戸を開けたところには裏庭があり、そこには、牛が一頭と、その隣の鶏小屋には20羽ほどの鶏がいたことから、暖かい風のある日は、この臭いが部屋の中まで入って来て、とてもつらかったそうです。

鶏の世話を命じられていた

そして、愛川さんは、その家の主人から鶏の世話を命じられたそうで、真ん中の柵によって二つに仕切られている鶏小屋の格子の扉を開けて、鶏を向こう側の部屋に追い込み、戸を閉めて掃除をしていたそうですが、

小屋の土間に敷き詰められた藁(わら)の上には、鶏の糞(ふん)が山のように積もっており、その糞を大きな箱に入れて裏の堆肥(たいひ)置き場に持っていかなくてはならなかったそうで、牛と鶏の糞が混ざった異様な臭いの立ち込めるその場所が、一番キライな場所だったそうです。

(愛川さんは、動物が嫌いで、鶏が怖かったそうですが、それでも一生懸命、鶏の世話をしたのだそうです)

風呂は家族全員入り終わった一番最後だった

また、この家は、おじさんとおばさんのほか、息子が5人、娘が3人、ほとんど耳の聞こえないおばあさんが一緒に暮らす大家族だったそうですが、

お風呂には、まず、家長のおじさんが入り、次に長男からと順番が決まっていたそうで、この家族が全員入り終わった夜の9時頃、やっと、愛川さんとお母さんの番になったそうです。

(ただ、愛川さんが入る前には、みんなが入った後で気持ちが悪いだろうと、お母さんが、釜に薪を新たに入れて、お湯を熱くしてくれたそうです)

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鶏の卵を内緒で売っていた

そんなある日の夕食時のこと、

おじさんから、

近頃、鶏があんまり卵を生まねえども、ちゃんと餌(えさ)は食わしているか、それともお前、卵をこれしているんじゃないだろうな

と、人差し指を曲げながら、笑って言われたことから、

愛川さんは、鶏にどんどん餌をたくさんやって卵を生ませようと、心の中で決心したそうで、

鶏に少し慣れて来たこともあり、お母さんが手伝ってくれるのを断って、なるべく一人で鶏の面倒を見始め、鶏にやる餌も増やしたところ、鶏はたくさん卵を生むようになったそうです。

そこで、愛川さんは、かばんに卵を入れ、食堂をやっている友達の家を訪ね、

僕が育てている鶏が生んだ卵です。買ってください

と、頼むと、

その家のおばさんは、

あんた、疎開っ子のくせに偉いんだね

と、言って、卵を買ってくれたそうで、

愛川さんは、それがうれしく、もっと鶏に卵を生ませようと餌をさらに増やすと、さらに卵の数は増えていったそうで、稼いだお金は、お母さんを驚かせやろうと思いながら、貯金したのだそうです。

「愛川欽也は小学生にして部屋を借りる交渉をしていた!」に続く

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