1948年、11歳の時、当時スター歌手だった笠置シヅ子さんのモノマネで一躍ブレイク。翌年の1949年には、主演映画「悲しき口笛」が主題歌とともに大ヒットを記録し、一躍、国民的スターとなられた、美空ひばり(みそら ひばり)さん。1952年の映画「リンゴ園の少女」の主題歌「リンゴ追分」は、70万枚という戦後最大の売上を記録しました。


「天才少女~バス事故~」の続き

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川田晴久との出会い

美空さんは、1948年、
人気歌手だった小唄勝太郎さんに花束を渡す役で、
横浜国際劇場に出演されると、

同じく出演中だったヴォードヴィリアン
(舞台で踊り、歌、手品などショーをする人)の、
川田義雄(後に川田晴久)さんと出会われたそうで、

その後、川田さんにその才能を見いだされ、
「川田一座」の巡業に加わります。

美空さんは、川田さんから、
大変可愛がられ、大きな影響を受けたようで、

専門家の声紋鑑定によると、
二人の節回しや歌い方は非常に酷似していたとか。

ちなみに、美空さんは、

「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」

と、後におっしゃっています。

モノマネでブレイク!

そんな美空さんは、「川田一座」の公演で、
当時のスター歌手、笠置シヅ子さんのモノマネをすると、
拍手喝采を浴び、「ベビー笠置」と呼ばれるほどに。

ただ、その半面、依然、

「少女が大人の恋愛の歌を歌うことへの反発」

があったようで、

詩人で作詞家のサトウハチローさんは、

「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」

と、美空さんを批判されています。

嫌がらせがきっかけで映画デビュー?

また、翌年の1949年1月には、
日劇レビューの「ラブ・パレード」で、

ブギ(boogie-woogieの略で、ピアノによるブルースの演奏形式)
を歌う少女を演じることになったため、
笠置さんの「ヘイヘイブギ」を歌う許可を得るのですが、

本番前に笠置さんは、突然、
「ヘイヘイブギ」の使用を禁止。

それが、本番5分前になると、
「ヘイヘイブギ」ではなく、「東京ブギウギ」なら、
歌ってもいいと言われたそうで、

当然、美空さんは、「東京ブギウギ」の練習など、
していなかったため、出だしが歌えず、
「ブギウギ~」の部分から歌い出すことになったのですが、

子どもが「東京ブギウギ」を、
歌い踊っている姿が観客にウケ、

同年3月、東横映画「のど自慢狂時代」で、
ブギウギを歌う少女の役で映画デビューされたのでした♪

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国民的大スターへ

そして、その3ヶ月後の6月には、
映画「踊る竜宮城」に出演され、
主題歌「河童ブギウギ」でレコードデビュー。

続く、9月には、
映画「悲しき口笛」で主演に抜擢されると、
この映画は大ヒットを記録!

さらに、同名主題歌「悲しき口笛」は、
当時の売上記録を更新する45万枚を売上げ、
美空さんは、一躍、国民的スターとなられたのでした。

「悲しき口笛」より。

(この時の「シルクハットに燕尾服」の姿は、
 美空さんの幼い時の姿として有名ですが、
 アメリカの「ライフ」誌にも掲載されたそうです)

その後も、1950年には、映画「東京キッド」で、
川田さんとともに主演を務めると、
またしても、映画とともに同名主題歌も大ヒット。
(美空さんは、この映画で天才子役と絶賛されています。)

「東京キッド」より。右の二人が美空さんと川田さん。

1952年には、映画「リンゴ園の少女」で主演を務められ、
主題歌「リンゴ追分」が70万枚の大ヒットを記録。
(当時、戦後最大の売上記録。)

「リンゴ園の少女」より。

また、1953年に、
映画「お嬢さん社長」で主演を務められると、

お母さんから呼ばれた「お嬢」が、
その後の美空さんのニックネームとして定着し、
親しまれるように。

「お嬢さん社長」より。右端が美空さん。

1954年には、「第5回NHK紅白歌合戦」にも、
「ひばりのマドロスさん」で初出場を果たし、

(以降、1972年まで通算17回出場。
 そのうち、13回トリを務められています。)

1955年には、江利チエミさん、雪村いづみさんとともに、
東宝映画「ジャンケン娘」に出演したことがきっかけで、
「三人娘」として、アイドル的な人気を博したのでした。

「~結婚~不死鳥公演~」に続く

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