「容貌の不自由な人募集します」オーディションでの合格で、今があるとは分かりつつも、やはり、「容貌の不自由な」というレッテルに傷ついてきた、中島唱子(なかじま しょうこ)さんは、40キロのダイエットに引き続き、ニューヨーク留学を敢行。そして、そこで待っていたのは・・・

「中島唱子の若い頃は?激ヤセでアラーキー写真集?柳沢慎吾と?」からの続き

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突然のニューヨーク留学

1995年11月には、衝撃のフォト&エッセイ集「脂肪 (新潮文庫)」を出版し、周囲を驚かせた中島さんですが、翌月12月には、なんと、「文化庁派遣芸術家在外研修員」としてニューヨークに留学。

「文化庁派遣芸術家在外研修員」とは、文化庁が海外に派遣する若手芸術家のことで、美術、音楽、舞踊、演劇の各分野から芸術家を海外に派遣し、実践的な研修を支援する「新進芸術家海外研修制度」として1967年に発足されました)

実は、デビューしてから10年以上経っても、デビュー作の「ふぞろいの林檎たち」を超える作品に出会えず、納得いく仕事に出会えない現実への不安のほか、時代の流れによって、自分の商品価値が変わっていく芸能界への憤りなども感じていたそうで、

時代に合わせて虚像の自分を当てこもうとする違和感と嫌悪感で、本当の自分が見えなくなってきていたんですよね。

知らない世界に身を置いて自分自身をリセットする環境と時間が必要でした。そんな気持ちが勇気を奮いたたせたのだと思います。

30歳直前にまた路地に消えていきました。その路地に迷い込んだ先が、巨大な街「ニューヨーク」だったんです。

と、そんな自分自身をリセットするためには、環境と時間が必要だと考え、ニューヨーク留学を決意されたのでした。

ジャズミュージシャン、デビッド・バークマンとの出会い

しかし、現実は厳しく、多種多様な民族が暮らす大都会ニューヨークでの生活は、冷たい風が吹き荒れ、言葉の壁、文化の壁が立ちはだかり、想像以上に大変で、ニューヨークに来てわずか10日で絶望。

そんな心がめげそうな日々の中、中島さんは、知人から紹介されて、ジャズミュージシャンのデビッド・バークマンさんと知り合われると、

日本語を勉強していたデビッドさんは、日本語を教えてくれる人を探していたため、中島さんはデビッドさんに日本語を教える代わりに、英語を教えてもらうという、語学交換レッスンを始められます。

(中島さんは、女性的な繊細さを持ち、やわらかい雰囲気のデビッドさんに、初めて会った時から、心を開いて話すことができたそうです)

すると、中島さんは、「はい」「いいえ」をつけながら丁寧に話すデビッドさんの日本語にも感動し、久しぶりに聞いた優しい日本語がとても温かくて美しく感じたそうで、ニューヨーク生活で疲れた心がデビッドさんによって癒やされていったそうで、

(デビッドさんはこの時、すでに独学で2年も日本語を勉強されており、中島さんの話す英語よりもはるかに上手だったため、会話はほとんど日本語だったそうです)

たった一つの会話でも、辞書を片手にお互い分かり合おうと時間をかけていたお二人の距離は、徐々に縮まり、ある時、食事に訪れた日本食のレストランでひじきのお通しものが出た際、中島さんが少し前に片言の英語で話したおばあちゃんの話をデビッドさんが覚えてくれていて、

これはショーコのおばあちゃんがよく作ってくれたひじきだね

と、言ってくれたそうで、

中島さんは、その何気ない一言を憶えてくれていたデビッドさんの優しさがうれしく、このことがきっかけとなり二人は交際するようになったのでした。

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「渡る世間は鬼ばかり」に出演~結婚

その後、中島さんは、1997年2月、留学生活を終えて帰国し、「ふぞろいの林檎たちIV」「魚心あれば嫁心」の2本の連続ドラマに出演されると、1998年には再びニューヨークに渡り、デビッドさんが住むブルックリンのアパートで一緒に暮らし始めるのですが、貯金も底を尽き始め、いよいよ、寿司屋のアルバイトでもしようと考えはじめます。

ただ、そんな矢先、テレビドラマ「渡る世間は鬼ばかり」のオファーが舞い込んだそうで、寿司屋の時給とドラマのギャラを比較すると、ドラマのギャラのほうが実入りが良かったことや、デビッドさんの後押しもあったことから、ドラマへの出演を決意。

こうして、1999年には、「渡る世間は鬼ばかり」にレギュラー出演が決まり、帰国されるのですが・・・


「渡る世間は鬼ばかり」より。(左から)岡本信人さん、
中島さん、泉ピン子さん、村田雄浩さん、角野卓造さん。

中島さんは、

「渡る世間は鬼ばかり」が決まった当初は、正直なところ、そんなに長いレギュラーになるとは思っていませんでした。

私が演じた聖子ちゃんは「幸楽」の店員の役でしたし、キャラクターも強烈でよく悪いことをしては、いつお店を追い出されてもおかしくなかったので、私の役は1年で終わるだろうと思っていたんです。

毎回のシリーズに出演させて頂き、有り難い気持ちとその裏腹に私生活では複雑でした。空港に見送ってくれるデビッドさんの淋しい姿をみるのが本当につらくて、飛行機の中で泣きながら日本に帰国していました。

と、デビッドさんと離れ離れになるという悲しい気持ちを抑えつつ、撮影の合間をぬってはニューヨークへ行き、また、デビッドさんもツアーで日本に会いに来たりと、交際を続け、2002年、ついに、お二人は結婚されたのでした。

「中島唱子の現在は?子供は?旦那とは遠距離婚(NY)だった!」に続く

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