1979年に「宝塚音楽学校」に入学すると、1981年には「宝塚歌劇団」に67期生として入団し、花組男役トップスターとして活躍された、真矢ミキ(まや みき)さんですが、入団当初、芸能の成績は芳しくなかったようです。

「真矢ミキの父親は航空会社の重役!祖父は呉服屋の御曹司も破産!」からの続き

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小学・中学時代は転校続き

そんなご両親のもと、真矢さんは広島で誕生するのですが、お父さんの転勤で、4歳の時から各地を転々とし、小学5年生の時には、5回目の引っ越しとなる、大阪府豊中市に引っ越し。


赤ちゃんの頃の真矢さん。

当時、真矢さんは、芸術とはまるで無縁の生活を送られていたため、芸術の習い事を一切したことがなく、普通の学習塾に通う子どもだったのですが、

ある日のこと、阪急電車で、かわいい茶色の制服姿の女の子が乗っているのを見て、

あの制服はどこの学校?

と、一緒に乗っていたお母さんに尋ねると、お母さんから「宝塚音楽学校」だと教えてもらいます。

実は、真矢さんはそれまで知らなかったのですが、お母さんは、女学生の時から、「宝塚歌劇団」のファンで、将来女の子が生まれたら、「娘を宝塚に入れる」との夢を抱いていたことがあったそうで、

そんな遠き日の夢を思い出したのか、お母さんは、この日以来、真矢さんに、

見てみる?宝塚

と、ニコニコしながら言うようになったそうです。

「コドモアテネ」に入校

こうして、真矢さんは、中学1年生の時、宝塚の付属校「コドモアテネ」に通い始め、日舞のレッスンを受けられるのですが、本格的に宝塚を目指していたわけではなく、習い事のような感覚で、楽しく通われていたそうです。

(「コドモアテネ」は、小学4年生から中学2年生までの女の子が毎週日曜日だけ通い、声楽、日舞、バレエを習うことができたそうです)

ただ、3月になると、「コドモアテネ」内の会話が、「誰々さんは宝塚受験らしい」など、もっぱら宝塚受験の話になったそうで、

そうか、ここは単なる習い事として通うだけではないんだ!

と、遅ればせながら真矢さんも気がつくと、宝塚音楽学校を受験することを決意されたのでした。

「宝塚音楽学校」に合格

そして、3月下旬、受験のため、宝塚音楽学校を訪れると、(真矢さんは、この時すでに、一般の高校には合格していたため、落ちてもともと、という気持ちだったそうです)

通された試験会場は、「コドモアテネ」で毎週末、ゴザを敷いて、みんなとワイワイお弁当を広げていた講堂だったそうで、

まわりの受験生たちが「ついに宝塚に一歩入った!!」と興奮さめやらぬ中、真矢さんは、

この辺、いつもお弁当で私が陣取ってるところだ…

と思って、次第に緊張が解け、慣れた場所での安心感のもと、気負いなく実力が発揮できたそうで、一次試験に合格。

そして、こうなると、「受かりたい!」という気持ちが湧いてきて、少しくらい失敗しても、とにかく、

やる気はあります

と、ばかりに、笑顔でアピール。

それが功を奏したのか、二次試験にも合格すると、

最終面接の時にも、

神よぉご慈悲を

と、ばかりに神頼みしながら、歯をむき出しにした、とびっきりの笑顔を見せ、見事合格。

真矢さんは、1979年、中学校を卒業すると、念願の「宝塚音楽学校」に入学されたのでした。

(ちなみに、真矢さんは、中学の時、大地真央さんのファンだったそうで、大地さんの部屋の前で手紙を持って待っていたことがあるそうです)

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宝塚入団当初は「劣等生」だった

ただ、真矢さんは、小さい頃から、バレエや歌をやっていたわけではなかったため、入学試験の成績は、39人中37番。(そのため、真矢さんは、自身のことを「劣等生」だと語っています)

その後、いくら努力しても、芸能の成績は上がらず、人生で初めて挫折を経験したそうで、

1981年に、67期生として「宝塚歌劇団」に入団し、初舞台を踏まれるも、ついに、お母さんに、

辞めたい

と、言ったそうです。

すると、お母さんは、

ついこの間、初舞台を踏みましたというハガキを親族に出したばかりだから、あと2年ぐらいやってくれないと恥かくわよ

と、言われたそうで、真矢さんは、仕方なく辞めることを思いとどまったそうで、

宝塚で自分の生きる道を模索する中、優等生ではなかったからこそ、

芸ではかなわなくても、個性を活かして見せ方を工夫すればよい

と、考えるようになったのでした。

「真矢ミキが宝塚花組男役トップスター時代は革命児と呼ばれていた!」に続く

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