4歳で釜山に住む叔母夫婦の養女となると、養父母からかわいがられ、何不自由なく育てられていた、有馬稲子(ありま いねこ)さんですが、養父が他界し、さらには、太平洋戦争により、想像を絶する苦難の日々が始まります。

「有馬稲子の生い立ちは?幼少期は韓国釜山で裕福な生活をしていた!」からの続き

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日本に引き揚げようとするも・・・

こうして、喜びの再会を果たした有馬さんと養母は、なんとか釜山の家まで帰り着くのですが、現地の人からは、「日本人帰れ!」と言われるようになり、あちこちで、日本人が殺されたという噂も聞こえてきたため、身の危険を感じ、帰国することに。

ただ、日本への引き揚げは、釜山のような下関に近い場所は後回しにされていたため、なかなか引揚船に乗ることはできなかったそうです。

そんな時、ある軍隊の隊長さんが養母のことを心配し、終戦後、一度、内地に帰ったにもかかわらず、再び釜山に戻ってきて、有馬さんたちが日本に帰る船(小さなイワシ船)を探してくれたのだそうです。

(それがなかったら帰って来られなかったそうです)

命がけの日本引き揚げ

しかし、船には乗ることができたものの、港はアメリカ軍の厳しい監視下に置かれていて、アメリカの船と韓国の監視船が見張っており、無断で出港しようとする船は、容赦なく銃撃されたそうで、

その中を縫って出ようとするのですが、有馬さん達が乗った船は小さい船だったため(ポンポンと蒸気の音がしたそうです)、船を引っ張ってもらって外海に出ようとするも、潮の流れが逆でもとに戻ってしまい、また、外海に出ようとしては元に戻され、というのを、夜の10時くらいに幾度となく繰り返し、

こんなことじゃ見つかっちゃう

と、本当に怖かったそうです。

そして、「一時間くらい船の底に身を潜めていろ」と言われ、みんなで寝転がって、いつ撃たれるかとドキドキと息を潜めて待つこと2時間、ようやく危険なところを脱出できたそうで、

有馬さんは、その時のことを、

その人がとても良い人だったの。韓国の人だったんだけど自分の家族が下関にいたんですよ。だから船長さんもどうしても下関へ帰りたかったのね。それで助かったんですよ。

と、語っておられました。

帰国も日本は敗戦直後で大混乱状態

こうして、命からがら、なんとか日本にたどり着いた有馬さんたちでしたが、何が何でも祖国にたどり着けばいい、という航海だったため、その先の計画など何もなく、さらに、終戦直後の日本は大混乱状態。

大阪で暮らす実の両親や親戚の生死も分からない中、有馬さんたちは、船で一緒になった一家の家で1ヶ月あまりお世話になったそうです。

そして、ほどなくして、探していた大阪の家族の無事が分かると、実のお父さん(養母の弟)が迎えに来てくれたのですが・・・

実父のDVに苦しめられる

なんと、10年ぶりにあったお父さんは、いきなり、大きな手で有馬さんの頭を強く押さえ、

いいか、今日からお前は私の言いつけを守るのだ、俺を怒らせるな

と、脅かすように言い放ったそうで、

その後も、お父さんは、いつも不機嫌でイライラしていて、粗暴で気性が荒く、思い通りにならないことがあると、すぐに暴力を奮ったというのです。

ちなみに、その暴力はすさまじく、何か言うとすぐに殴られ、何かちょっと失敗しただけで、「みんな並べ」と整列させられ、端から殴られたそうで、

有馬さんは、自分が悪いことをしたわけでもないのに殴られることがとても嫌で、自分の親ながら、全然尊敬できず、そのため、今でも有馬さんは、実の父親のことは、「お父さん」とは呼ばず、「おじさん」「その人」とおっしゃっていました。

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全ての家事を押し付けられていた

また、実家は、いつの間にか弟や妹が6人も生まれており、さらには、居候も入れると、12~13人の大家族となっていたそうですが、

掃除、風呂焚き、大量の食器洗いなど、あらゆる家事が、すべて長女である有馬さんの義務だったそうで、これまで一人っ子で、何不自由なく養父母に育てられた有馬さんにとって、それはとても苦しいものだったそうです。

そんな殺伐とした暮らしの中、有馬さんは、両親に内緒でバレーボール部に入部したそうで、バレーボール部の練習に参加している時だけが、唯一の息抜きだったそうです。

「有馬稲子の若い頃は宝塚!養母の芸名・有馬稲子を受け継いでいた!」に続く

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