終戦後、韓国・釜山から命からがら帰国するも、その後は、実父の暴力に苦しめられるなど、悲惨な少女時代を過ごしていた、有馬稲子(ありま いねこ)さんですが、友達の一言で人生が一変します。

「有馬稲子は父親から壮絶なDVを受けていた!」からの続き

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「宝塚音楽学校」受験は父親のDVから逃れるため

全ての家事一切を義務として課されたうえ、お父さんの暴力に耐える苦しい日々の中、内緒で入部していたバレーボール部の練習が、唯一の息抜きだった有馬さんですが、お芝居も好きで、学芸会で主役をやったことがあったことから、

ある日、仲の良かった友達に、

ね、タカラヅカ受けへん。音楽学校が生徒募集してるわ、あんたやったら受かるんちゃうか。

と、言われたそうです。

この友達の一言に、有馬さんは、

これはあの家から抜け出す手掛かりになるのでは…

と、背中を押され、「宝塚音楽学校」を受験することを決意されたそうで、

後に、有馬さんは、

私が宝塚音楽学校に入ったのは昭和23年。戦前に一度廃止されていた星組も復活していましたから、私が宝塚への道を選んだのも、その華やかな世界に憧れて…と思われるでしょうけれど、実は私は、誰にも信じてはもらえない理由で宝塚を選んだんです。

DV(家庭内暴力)や虐待という忌まわしい言葉が、(現在は)ごく普通に使われるようになっていますが、あのとき私の家で行われていたことは、まさに今で言うDV以外の何ものでもありません。

そして、その被害者が避難する場所は「シェルター」といわれますが、私はまさにDVからのシェルターとして宝塚を選んだように思えるのです。

と、「宝塚」を目指した理由を明かされています。

(有馬さんは、それまで、「宝塚」の知識は全くなく、駅で美しい宝塚のポスターを見かけるくらいだったそうです)

「宝塚音楽学校」に合格~養母「有馬稲子」の芸名を受け継ぐ

こうして、有馬さんは、1948年、「宝塚音楽学校」を受験すると、見事合格。

有馬さんは、これをきっかけに、養母と一緒に家を出ると、親戚の家の屋根裏部屋で暮らし始め、そこから「宝塚」に通うことになったのでした。

ちなみに、それまで、有馬さんは知らなかったそうですが、なんと、養母(中西かねさん)は、1916年から1926年まで、「有馬稲子」(旧字体:有馬稻子)の芸名で、4期生として「宝塚歌劇団」に在籍されていた経歴があったそうで、

有馬さんは、「宝塚音楽学校」入学式に向かう電車の中で、そのことを知り、「有馬稲子」の名前を受け継ぐことになったのでした。

映画「せきれいの曲」で主演に抜擢~宝塚に借金して一軒家を建てる

そんな有馬さんは、翌年の1949年には、36期生として「宝塚歌劇団」に入団すると、主に娘役として活躍。

そして、1951年には、「寳塚(宝塚)夫人」で映画デビューも果たすと、

(もともと、新劇が好きだったため、映画への誘いには抵抗がなかったそうです)

同年7月には、映画「せきれいの曲」でいきなり主演に抜擢。


「せきれいの曲より。

これで、芸能界でやっていけると思った有馬さんは、「宝塚歌劇団」に借金をして、養母と二人で暮らすための一軒家を建てたそうで、

ママは踊りを教えないと仕事にならないんだけど、教える場所がなかったから、それで早く家を建ててあげようと思って。本当にそれだけが私の親孝行ですよ。

踊りを教える部屋と私の部屋の間に台所があるだけ。それでも家を建てたのは偉いですよね、よくお金を借りたと思うの、私も、図々しく(笑) 。宝塚もよく貸してくれましたよね。

と、後に明かされているのですが、それだけ、当時、有馬さんが、「宝塚歌劇団」に期待されていたということが伺えます。

(宝塚時代は、さんざん暴力をふるってきた父親からも、お金を無心されたそうです)

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早々に「宝塚歌劇団」を退団した理由とは?

しかし、有馬さんは、早々に「宝塚歌劇団」をやめようと思われていたのだそうです。

というのも、当時、「宝塚歌劇団」には、「宝塚調」と呼ばれる、持って回ったようなセリフの言い方があり、

有馬さんが、映画のようにリアルにセリフを言おうものなら、

そんなんじゃなくて粘ってこう言いなさい

と、「宝塚調」で言うように、上級生によく注意されていたそうで、

これから女優としてやっていくなら、できるだけ「宝塚調」が染みつかないうちにやめたいと、思われたのだそうです。

そして、1953年3月25日付で、有馬さんは、「宝塚歌劇団」を退団されたのでした。

(ちなみに、有馬さんは、「宝塚歌劇団」では、新人の時からかなりの好待遇だったため、嫉妬されたそうで、呼び出され、吊るし上げられたこともあったそうですが、それでも、暇になると、毎日のように神戸までお好み焼きを食べに行くなど、宝塚時代はとても楽しかったそうです♪)

「有馬稲子の昔は東宝や松竹でスター女優!小津安二郎監督との思い出とは?」に続く

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