1975年末、小林克也さんに誘われる形で、桑原茂一さんプロデュースのラジオ番組「スネークマンショー」に参加した、伊武雅刀(いぶ まさとう)さんは、その後、1980年、当時、絶大な人気のあった「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」とコラボーレートするのですが・・・

「伊武雅刀の若い頃はデスラーの声ほか小林克也とラジオ番組も!」からの続き

Sponsored Link

スネークマンショーがYMOとコラボレーション

伊武さんが、小林克也さんから誘われ、桑原茂一さんと3人でスタートした「スネークマンショー」は、たちまち脚光を浴びるのですが、

その後、桑原さんが多くのミュージシャンと交流があったことから、1980年には、当時、若者に絶大な人気があった「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」の細野晴臣さんと高橋幸宏さんから、

ギャグと音楽で構成される、「スネークマンショー」形式のミニ・アルバムを制作したいと申し入れがあり、「スネークマンショー」「YMO」と全面的なコラボレーションを行います。

スネークマンショーとYMOのイベントは観客の不満爆発で大失敗

そして、このアルバムの制作中、「スネークマンショー」は、1980年4月23日、日本武道館で開催される小学館の雑誌「写楽」の創刊イベント「写楽祭」の演出の依頼も「YMO」から受けたそうで、

桑原さんは、「スネークマンショー」的なシュールで不思議な余興を演じた後、最後に「YMO」のコンサートを行うという、これまで「スネークマンショー」で繰り返しやってきたコンセプトを再現しようと考えたのですが、

打ち合わせがほぼ行われないまま、本番となると、もともと、通常のコンサート形式ではなく、ギャグ主体のイベントだということも、1万人の観客には事前に伝えられていなかったことから、しびれを切らした観客は、「演奏やれ!」など野次が飛ぶ事態に。

これに対し、怒った坂本龍一さんが、「うるせーぞ、この野郎」「ぶっ飛ばすぞ、この野郎」と応酬し、高橋さんは、「黙って聴いてなさい、ちゃんとやるんだから」となだめるなど、ひどい混乱状態となり、新雑誌創刊のセレモニーは中止となり、「写楽祭」は大失敗に終わってしまったのでした。

(実は、「YMO」が「スネークマンショー」とコラボする話は、細野さんと高橋さんだけで進められており、坂本さんには事前に説明がなかったこともあって、坂本さんはキレたようです)

スネークマンショーが責任を負わされラジオ番組打ち切り

当然、この大失敗に、スポンサーの小学館とラジオ番組「スネークマンショー」のTBSは怒り心頭となるのですが、すでに大スターである「YMO」を怒る訳にもいかず、

以前からラジオ番組「スネークマンショー」での過激な内容に眉をひそめていたTBS上層部は、怒りの矛先を「スネークマンショー」に向け、同番組は1980年6月いっぱいで突然打ち切られてしまったのでした。

(もともと、急進的だった「スネークマンショー」を危惧していた、局、スポンサー、放送関係者が、ここぞとばかりに、責任を「スネークマンショー」に転嫁したと言われています)

アルバム「増殖」「スネークマン・ショー」が大ヒット

こうして、「スネークマンショー」は不本意な形で打ち切られてしまったのですが、1980年6月、イベントの前に決まっていた「YMO」とのコラボーレートアルバム「増殖」が発売されると、

それまで、「スネークマンショー」を知らなかった世代にも支持され、オリコンチャート初登場1位を記録する大ヒット。


増殖

そして、「アルファレコード」から、「スネークマン・ショー」単独でアルバムを出さないかとオファーを受け、1981年2月、細野晴臣さんを共同プロデューサーに迎え、ファーストアルバム「SNAKEMAN SHOW/スネークマン・ショー」を発売すると、関係者の誰もが予測していなかった大ヒットを記録。


SNAKEMAN SHOW/スネークマン・ショー

さらに、同年10月発売のセカンドアルバム「死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!」も大ヒットを記録します。


死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!

Sponsored Link

人気絶頂から自然消滅へ

そんな「スネークマンショー」ですが、実は、セカンドアルバム「死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!」を発売する前から、伊武さん、小林さん、桑原さんの3人は、それぞれ次のステップに進みたいと、セカンドアルバムを最後のアルバムにしようと申し合わせていたそうですが、このアルバムの大ヒットにより、3人の意見が食い違うことがさらに多くなり、小林さんが脱退。

ただ、「スネークマンショー」に対する反響はあまりにも大きく、さらなるリリースを求めるファンの期待に答えるべく、1982年には、急遽、番外編的に「スネークマンショー海賊盤」を発売、1983年には、伊武さんと桑原さんのみで「ピテカントロプスの逆襲」を発売され、


スネークマンショー 海賊盤


ピテカントロプスの逆襲

その後も、数多くの編集盤が発売されるほか、メンバーのソロ活動も行われたのですが、やがて、「スネークマンショー」は自然消滅してしまったのでした。

「伊武雅刀は歌手だった?子供達を責めないででソロデビューしていた!」に続く

Sponsored Link