小学校高学年の時、ひょんなことから、実の母親は2歳の時にすでに亡くなり、実の母親と思っていた女性が義母(父親の後妻)だと知った、泉ピン子(いずみ ぴんこ)さんは、やがて、そのわだかまりから義母との折り合いが悪くなり、そんな義母から離れるため、家を出たい一心で漫談家へと転身するのですが・・・

「泉ピン子は中学生のとき「三門マリ子」で歌手デビューしていた!」からの続き

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悲惨な下積み時代

義母から離れたい一心で、歌手に見切りをつけ、漫談歌手に転身された泉さんは、その事務所に所属していた、ウクレレ漫談家・牧伸二さんの付き人となられるのですが、

牧さんの荷物持ちをするのはもちろんのこと、雨の時でも傘をさすことを許されず、地方のキャバレー回りをした際には宿も用意してもらえず、キャバレーの楽屋で寝泊まりしていたそうで、毎夜、キャバレーの経営者が楽屋に来るため、ビール瓶を片手に震えながら寝ていたほか、

地方キャバレーでは、泉さんもステージに立って漫談を披露するも、お客からは、

ブス、引っこめ!

と、野次が飛び、テーブルの料理を投げつけられることも日常茶飯事だったそうです。


当時の牧伸二さんと泉ピン子さん。

助けてくれない師匠・牧伸二

また、当時の泉さんのお給料はたったの8000円だったそうで、家賃8000円を払うと、生活できなくなってしまうため、深夜に飲食店の皿洗いのバイトをされていたそうですが、それでも、生活は苦しく、空腹のため、夜も眠れないことも多かったそうです。

(家賃が払えなくて大家さんに待ってもらったこともあったそうです)

しかし、師匠の牧さんは、

芸人をつくるのには10年かかる

と、言うのが口癖で、

泉さんには、苦労を味わってほしいという親心から、

そんなことは当たり前

と、泉さんを助けなかったと言われていたそうです。

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極貧生活

ちなみに、泉さんが暮らしていた部屋は、四畳半一間のお風呂もない、男性が多く暮らすアパートだったそうで、共同トイレだったため、急いで用を足し、入浴は、なんと、台所で3日に1回という生活で、地方営業でホテルに宿泊した時だけ、浴槽に浸かることができたそうです。

そして、食事はというと、袋入りのインスタントラーメンを4分の1ずつに分けるも、お湯は1杯分だったため、しょうゆを入れただけでのスープを作って、一気に飲み干してから麺だけ食べ、満腹感を得るようにしていたそうです。

また、地方営業は、ギャラが1本3000円と安かったそうですが、顔を覚えてもらうために、全国各地を巡ったそうで、在来線を23時間もかけて乗り継ぎ、東京から北海道まで向かったこともあったほか、客が入らなかったことからドタキャンされたこともあったそうで、

泉さんは、

キャバレー回りをやってた頃、空き時間はパチンコ屋にいた。売れてないときはずっとパチンコで食べてた。

と、語っておられました。

「泉ピン子は若い頃ウィークエンダーのリポーターでブレイクしていた!」に続く

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