宮本信子は伊丹十三の死後はジャズ歌手としても活動していた!
夫・伊丹十三さんの監督映画で次々と主演に起用されると、女優として高く評価されるようになった、宮本信子(みやもと のぶこ)さんですが・・・そんな中、突然悲劇に襲われます。
「宮本信子は夫・伊丹十三に女優として高く評価されていた!」からの続き
伊丹十三が他界後はジャズ歌手活動が心の支えに
宮本さんにとって、公私共に良きパートナーで、かけがえのない存在だった伊丹さんですが・・・1997年、突然、自ら命を断ってしまいます。(「伊丹十三の死因は自殺?他殺説が多い理由とは?」)
この出来事に、宮本さんは、あまりのショックで、一時は、映画を見ることができず、映画館に入ることにも恐怖を感じるほどだったそうですが、
やがて、
伊丹さんが亡くなったあと、自分に何ができるのだろう
と、考えるようになり、失敗しても何か新しいことに挑戦したい、舞台を中心に仕事をしたい、と思い始めると、
そんな中、1999年、作曲家・小椋佳さんの番組「歌壇の部屋」に出演し、初めて生バンドで歌ったことがきっかけとなり、2000年、ジャズ歌手としての活動を始めることに。
すると、それが心の支えとなって、徐々に立ち直ることが出来たのだそうです。
「伊丹十三記念館」を設立
そして、2004年には、「伊丹十三記念館」を設立し、館長も務められているのですが、当初は、継続が大変なことや重圧を背負うことになるとの理由で、二人の息子さんは大反対。
それでも、宮本さんは、
いや、つくる。つくります。つくりたいからつくります。
と、自身の意思を貫き、設立に至ったそうで、
宮本さんは、そこまでして「伊丹十三記念館」を作ろうと思われたことについて、
伊丹十三がどういう人間だったのかを知ってもらいたいんです。こんな面白いおじさんがいたんだよ、こんな面白い映画があったんだよって。
そして、ここに訪れていただいたことをきっかけに、あらためて本を読んでみたいとか、再び映画を観てみたいかと思っていただければなって。
そういう場所にしたかったんです。おかげさまで近頃は若い方たちもいらしてくださって、それが何よりも嬉しいです
日本の邦画界がどん底のとき、伊丹十三が彗星(すいせい)のごとく監督として現れたんです。なんといってもすごいのが脚本。どれも素晴らしく面白い。市川崑先生も「伊丹くんの脚本はすごい、誰も書けない」とおっしゃっていましたから
と、明かされています。
(やがて、二人の息子さんも、そんな宮本さんを見て、協力してくれるようになったそうで、この時、宮本さんは、子どもを二人産んで良かったと思われたそうです。)
伊丹十三への尽きぬ想い
ちなみに、宮本さんは、結婚後、主婦業と子育てを優先して、女優業は控えられており、
子どもを産むということは、子どもを育てるという責任があると思っていたんです。自分自身のなかで、家庭と仕事の優先順位はしっかり持っていたので、必然的な流れでした。
もちろん同世代の人が活躍しているのを見て心に思うこともありましたが、そこでお仕事がなくなっても、それは仕方ないことだと割り切っていましたね
と、明かされているのですが、
私たちの出会いは職場でしたが、いつも伊丹さんは「あなたはいい女優なんだよ」と言ってくれました。その言葉があったから、ぐらぐらせずに済んだんでしょうね
と、ぶれることなく、自身の思いを貫き通せたのは、伊丹さんの言葉があったからだと、今もなお尽きることのない伊丹さんへの想いを語っておられます。
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