1989年5月10日、見事、日本人女性初の北極点到達に成功した、和泉雅子(いずみ まさこ)さんですが、1985年の1回目の失敗後は、1億円もの借金の返済に追われつつも、北極点への思いが募るばかりだったそうで、再チャレンジを目指すに当たり、1回目の失敗を活かし、様々なことを改善されたといいます。

「和泉雅子は北極点到達を日本人女性で初めて成功させていた!」からの続き

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3つだったテントを1つにしメンバー間のコミュニケーションを図っていた

まずは、1回目の北極点挑戦時、和泉さんたちは、冒険家・植村直己さんが北極点を目指した時と同じ設計図で作られたテントを持っていったそうで、テントの質は申し分なかったそうですが、女性である和泉さんだけのテント、地元の男性隊員だけのテント、日本人男性隊員だけのテントと、3つのテントを作ったそうで、それがいけなかったというのです。

というのも、仕事が終わると、みんな、それぞれ自分のテントに入ってしまってお互いの会話がなく、一面真っ白のマイナス40度、50度という厳しい環境の中では、なんとなくお互いがぎくしゃくとしたそうで、和泉さんは、それが失敗につながったのでは、と考えたのだそうです。

そこで、2回目の北極点挑戦では、5人が入れるだけの、仕切りのない大きなテントを作ると、5人が一緒に、喜び、悲しみ、苦しみを味わうことができ、人間関係が非常にうまくいったのだそうです。

防寒コートを日本製に変更していた

また、1回目の北極点挑戦時、体重が最低でも60キロ以上なければならなかったため、和泉さんは、体重を68キロまで増やしたそうで、婦人用のコートではサイズがなく、紳士物のコートを着ることになったそうですが、

逆にサイズが大きすぎてブカブカで、隙間からどんどん冷たい空気がコートの中に入ってきて、とても寒かったそうで、

(コート自体は、マイナス50度でもびくともしないカナダ製のコートだったそうです)

2回目の挑戦では、日本で最高のコートを作ろうと考え、ぺしゃんこにつぶれても保湿性が高い綿を使用し、結果、いつまでも温かいコートが完成。このコートのおかげで、もう寒さに震えることはなかったのだそうです。

また、色については、万が一、遭難した時、救助に来たヘリコプターや飛行機に見つけてもらうため、少しでも目立つよう、色鮮やかな色を着ることになっていたそうで、白い氷の中でパーッと映え、かつ、写真写りの良い紫色にされたそうです。

毎日1キロの肉を食べていた

そして、木が一本も生えていない、何の変化もない白一色の世界にいると、どんなに訓練を受けた人でも、どんなに頑強な山男でも、あっという間にストレスがたまって極限状態となってしまうことから、

和泉さんは、心身を健康に保つためにはしっかり食べてしっかり排泄することがとても重要なことと、食べ物の重要性を意識し、食べ物の研究をされたそうで、

  1. まず、第一に、1人1日1キロのお肉を食べるようにしていたのだそうです。(イヌイットの人からは、「食べる遠征隊」とあだなをつけられたそうですが、それぐらい食べないと、マイナス50度の中では、到底、作業などできないのだそうです)
  2. また、お肉の次に大事なのが、砂糖だったそうで、マグカップで飲み物を飲む時、なんと、カレーライス用の大きなスプーン山盛り3~5杯の砂糖を入れていたのだそうです。(寒さで脳がやられて思考力が低下しても、温かく甘い飲み物を飲むと、すぐに元気が出て、もう一回頑張ろうという気持ちになるからだそうで、摂取して20分ほどですぐにエネルギーに変わる砂糖は、極寒の地ではなくてはならない食べ物なのだそうです)
  3. さらに、日本人である和泉さんには、便秘を防ぐため、ご飯(お米)も欠かせない食べ物だったそうです。(日本人は西洋人よりもはるかに腸が長く、10メートルもあることから、毎日、お肉ばかり食べていると便秘気味になってしまうのだそうです)
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北イヌイットの生活の知恵も借りていた

そのほか、和泉さんは、狩りに出かける際、寒い日は、軍払下げのパラシュートをテントの上にふんわりかけると、テントの内側に霜がつかず暖かいことを、メンバーである、北イヌイットの民族の知恵を借り、実践されたそうで、

2回目で北極点挑戦が成功したのは、既成概念にこだわらない、和泉さんの柔軟な思考と周到な準備も、大きな要因の一つだったに違いありません。

「和泉雅子の結婚は?現在は北海道の別荘と銀座の自宅の往復生活!」に続く

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