喜劇に向いていると思い、落語家の柳家金語楼さんに弟子入りするも、美人すぎるという理由から、なかなか喜劇をやらせてもらえず、そのうち、その美貌から、「日活」のプロデューサーだった水の江瀧子さんにスカウトされて、「日活」に入社された、和泉雅子(いずみ まさこ)さんですが、「日活」ではこの世の春を謳歌されます。

「和泉雅子が中学の時は喜劇役者を目指し柳家金語楼に弟子入りしていた!」からの続き

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「日活」は年功序列がなく和気あいあいとしていた

喜劇役者を目指し、落語家の柳家金語楼さんに弟子入りするも、美人過ぎることから、喜劇はやらせてもらえず、村長の娘や、お嬢様の役ばかりで、ついには、「日活」のプロデューサーだった水の江瀧子さんにスカウトされて「日活」に入社された和泉さんですが、

(和泉さんいわく)撮影所では、俳優もスタッフもみんな若く、年功序列もなかったことから、先輩である石原裕次郎さんを「裕ちゃん」、二谷英明さんを「エイメイさん」、宍戸錠さんを「ジョーさん」、スタッフの森永さんを「キャラメル」、江崎さんを「グリコ」と呼ぶほか、監督のことまで、「カントクーッ」と呼ぶ気軽さで、みんなに接していたほか、

俳優の控室は個室がなく、いくつかある大部屋を10人、15人で使うことになっていたそうですが、みんなで食堂に集まって一緒にご飯を食べたり、おしゃべりをするなど仲が良く、そんな和やかな雰囲気の中で、和泉さんは、和気あいあいと仕事をされたのだそうです。

(ただ、仕事の方はと言うと、和泉さんは、年相応の純粋な少女の役をやりたかったそうですが、18歳など実際の年齢より少し年上の役が多くて大変だったそうです)

音楽ダビング室が一番のお気に入りの場所だった

さらに、和泉さんは、しばしば編集ルームに行っては、クレジット部分のフィルムを編集させてもらったり、助監督部という部屋に行っては、ナゾナゾをやって遊んでいたそうですが、

もし、ナゾナゾをやってくれないなら、撮影やらないから

と、言うほどの奔放ぶりだったそうです(笑)

そして、そんな和泉さんの一番のお気に入りは、音楽ダビング室だったそうで、そこでは、映し出されている映画に合わせて、指揮者とオーケストラが演奏して録音していたそうですが、この時、超一流の演奏家が来て演奏していたため、コンサートみたいでとても楽しく、さらには、一流の音楽家とも仲良くなれたことが嬉しかったそうです。

(この頃あたりから、和泉さんは、裏方の仕事に興味を持つようになったそうです)

至れり尽くせりだった

また、「日活」では、「いつもの会」という俳優仲間の会があり、年に1回飲み会が開かれていたそうですが、和泉さんが14、15歳の頃、吉永小百合さんとともに、赤坂の有名なクラブに連れて行ってもらい、2人で踊っていると、

宍戸錠さんと二谷英明さんが、

ここは女の子同士で踊ったらダメなところなんだよ

と、エスコートしてくれるなど、遊び方もおしゃれで、遊びが終わると、運転手さんとお母さんが表で待っていて、送迎してくれるなど、至れり尽くせりだったのだそうです。

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吉永小百合と松原智恵子と共に「日活3人娘」として絶大な人気を博す

そんな中、当時、「日活」は、石原裕次郎さん、小林旭さん、赤木圭一郎さん、和田浩治さんの主演俳優4人を「日活ダイヤモンドライン」と呼んでいたそうですが、石原さんがスキー場で大ケガ、赤木さんが撮影所で事故死と、不幸が続き、廃れていくと、

その後を埋める形で出てきた青春映画が大ヒットを記録し、主演を務めた、吉永小百合さん、浜田光夫さん、松原智恵子さん、高橋英樹さんたちが、「日活グリーンライン」と呼ばれるようになったそうで、

和泉さんによると、

それまでは、「タフガイ」(裕次郎さん)、「マイトガイ」(小林さん)と、単独だったんですが、私達は十把一絡げ(じっぱひとからげ)で、その中から会社が売り出そうと、3人を選んでくれたんです。勢ぞろいの晴れ着撮影とかイベントがあるたびに3人で出ていました。

と、1961年には、和泉さんは、吉永さん、松原さんとともに、「日活3人娘」として売り出されると、

雑誌「近代映画」の「オールスター投票・女優部門」では、1964~1968年まで5年連続でベスト10入りを果たすほか、1966年と1967年には、2年連続で吉永さんに次ぐ第2位にランクインするなど、絶大な人気を博したのでした。

「和泉雅子が若い頃はもてはやされ自由奔放な日々を送っていた!」に続く

「日活3人娘」。(左から)松原智恵子さん、吉永小百合さん、和泉さん。

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