松原智恵子の若い頃が美人!日活3人娘!実家は?現在の年齢は?


16歳の時、「ミス16歳コンテスト」で、見事入賞し、同年、日活映画「夜の挑戦者」で女優デビューされた、松原智恵子(まつばら ちえこ)さん。日活では、数多くの映画でヒロインを務められ、吉永小百合さん、和泉雅子さんとともに「日活3人娘」と呼ばれました。そんな松原さんの、生い立ち、デビュー、ブレイクについて調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

松原さんは、1945年1月6日生まれ、
愛知県名古屋市のご出身(岐阜県揖斐郡池田町生まれ)、

身長158センチ、

血液型はO型、

学歴は、
名古屋市立桜台高校
⇒菊華高等学校(現・杉並学院高等学校)へ編入
⇒明治大学二文英文学科卒業

特技は、
日本舞踊、乗馬、

ちなみに、本名は漆原智恵子です。

実家がお金持ち

松原さんは、戦時中、名古屋空襲を避けるためにお母さんが疎開していた岐阜県で、一男三女の末っ子として誕生すると、

戦後は、実家のある名古屋に戻られ、お父さんが不動産業、お母さんが「松原荘」という旅館・銭湯を営むご両親のもと、とても裕福な少女時代を過ごされたそうです。

(1959年(松原さんが中学生の時)の伊勢湾台風では、土手が決壊し、家の中に水が上がってきたそうで、お父さんが、当時高価だったテレビを抱えて二階に避難されるも、一階にあった結婚式を間近に控えたお姉さんの嫁入り道具は流されたり水浸しになるなどの大被害に遭われたそうですが、ご家族全員無事だったそうです)

美人姉妹と有名だった年の離れた姉に憧れて

そんな松原さんには、12歳年上と8歳年上の、年が一回りほど離れたお姉さんが2人いたのですが、お姉さんたちは、近所でも美人姉妹として知られており、各地のミスコンに応募しては、「ミス名古屋」「ミス海の女王」を受賞されていたことから、

松原さんは、小さい頃から、お姉さんたちに憧れ、髪型やファンション、何から何までお姉さん達の真似をしていたそうで、お姉さんたちがミスコンで優勝し、たくさんの賞品を持って帰ってくるのを見るたびに、とてもうらやましく思っていたのだそうです。

「ミス16歳コンテスト」で入賞し、日活へ

こうして、成長された松原さんは、キャビンアテンダントに憧れ、東京の外語大学を目指していたのですが、

高校1年生、15歳の時、浅丘ルリ子さん主演の日活映画「十六歳」の宣伝を兼ねた、「ミス16歳コンテスト」が中部地方で開催されたそうで、副賞の「東京見学」目当てに応募されると、見事、合格者の10名に選ばれます。

そして、お目当ての東京見学をされると、そのコースの中には、日活の撮影所もあったのですが、立ち寄った際、10名の合格者のうち、松原さんともう一人だけ声をかけられてお化粧をされ、カメラの前でいろんな質問をされたそうで、その後、実家に日活からスカウトの誘いがあったのでした。

これには、15歳で好奇心旺盛な松原さんはノリノリで、当初は、お母さんが、東京での一人暮らしを心配して反対されるも、最終的には、12歳上のお姉さんの旦那さんが東京出身ということで、その実家に下宿させてもらうことで、お母さんも送り出してくれたそうで、

松原さんは、1961年1月、高校1年の3学期を休学し、

3カ月間で女優としてやっていけるめどが立たなければ戻ってくる

という約束で、意気揚々と上京されたのでした。

女優デビュー後まもなく、次々とアクション映画のヒロインに抜擢

すると、早速、「夜の挑戦者」端役(ワンシーンのみ)で映画デビューされ、3ヶ月も経たないうちに、ヒロインに抜擢されると、

(その年の松原さんの母校、名古屋市立桜台高校の文化祭は、デビューした松原さんをひと目見ようと、多くの人が殺到したそうです)

以降、

1961年「明日に向って突っ走れ」 
     「無情の夢」
     「野獣の門」
     「大当り百発百中」
     「紅の銃帯」
     「大平原の男」
     「セールスマン物語 男にゃ男の夢がある」


「紅の銃帯」より。

     「波止場気質」
     「追跡」
     「天に代わりて不義を討つ」
     「機動捜査班 秘密会員章」
     「一石二鳥」
     「北上夜曲」
     「大人と子供のあいの子だい」


「波止場気質」より。松原さんと川地民夫さん。

1962年「燃える南十字星」
     「抜き射ち風来坊」
     「さすらい」
     「地獄の夜は真紅だぜ」
     「二階堂卓也銀座無頼帖 帰ってきた旋風児」
     「望郷の海」


「燃える南十字星」より。宍戸錠さんと松原さん。

と、怒涛のごとく、映画に出演されたのでした。

最愛の父親が他界

そして、主にアクション映画のヒロインを演じられていた松原さんは、比較的、時間に余裕があったことから、長らく休んでいた高校に行くため、東京の菊華高等学校(現・杉並学院高等学校)へも編入し、東京での生活も1年経って、女優としてやっていける目処がついた頃、

松原さんを応援してくれていたお父さんが、撮影所の近くの東京都調布市に一軒家を建てて、住み込みのお手伝いさんも雇ってくれ、松原さんが手軽に通えるようにと、軽自動車まで買ってくれることになり、松原さんは、その夏休みに自動車免許を取って、楽しみにしておられたのですが・・・

その夏(1962年、松原さん17歳)、またしても、東海地方に大きな台風が襲来。2階のベランダの雨戸を外からはめようとしてたお父さんが、突風に煽られて吹き飛ばされ、庭の石で頭を打って他界。

軽自動車はお父さんが亡くなった後、届いたそうですが、これが、お父さんからの最後のプレゼントになってしまったのでした。

ちなみに、末っ子ということもあり、お父さんからとても可愛がられていた松原さんは、しばらくはお父さんの死を受け止めることができなかったそうで、

でも、そうした父のサポートがあったおかげで、私は余計なことも考えず、ただ女優という仕事にまい進することができたんですね。

と、語っておられました。

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日活3人娘~テレビドラマで人気爆発し1日100通のファンレター

その後も、松原さんは、アクション映画や青春映画のヒロイン役を多く演じられると、吉永小百合さん、和泉雅子さんとともに、「日活3人娘」と呼ばれ、清純派女優として、日活映画の黄金時代を支えられるのですが、

1960年代後半になり、人々の関心が、映画からテレビへ移り、松原さんも、1966年、「山のかなたに」で、テレビドラマデビューされ、映画と並行してテレビドラマにも出演されると、

1967年のブロマイド売上は、吉永小百合さん、藤純子(現・富司純子)さん、和泉雅子さん、内藤洋子さんらを抑えて、女優部門で1位に。

また、1971年、日活が一般の映画の製作を中断し、ロマンポルノに路線を変更したことで、日活を退社され、以降、テレビドラマを主軸に活動されると、松原さんの人気はさらにうなぎ登りとなり、この頃には、なんと、1日100通ものファンレターが届いたのだそうです。

(自宅には、ファンレターの整理のため、郵便局内の整理棚のように、都道府県別に仕分けできる棚を作られたそうです)

こうして、松原さんは、吉永小百合さんと視聴率競争を繰り広げられるなど、各テレビ局から引っ張りだことなられたのでした。

「松原智恵子の現在はやすらぎの刻で天然?出演ドラマ映画は?」に続く

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