演出家の石井ふく子さんに北極点挑戦のための休みをもらい、復帰後の仕事の約束までもらった、和泉雅子(いずみ まさこ)さんは、舞台「女たちの忠臣蔵」が終わると、いよいよ、北極点挑戦の準備に全てを注ぎます。

「和泉雅子は石井ふく子に北極点挑戦後の仕事を約束してもらっていた!」からの続き

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村山雅美から隊長の心構えやサバイバルの必要性を学ぶ

演出家の石井ふく子さんの了承のもと、舞台「女たちの忠臣蔵」の稽古の合間を縫って、北極点挑戦の準備を進めていた和泉さんですが、

1984年12月、無事に公演が終わると、いよいよ、北極点挑戦の準備に全てを注ぎ、1984年暮れから翌年1985年正月にかけては大忙しとなり、協力してくれる人たちへの挨拶にも奔走。

まずは、五月女次男さんの紹介で、第9次南極越冬隊長として、日本人で初めて南極点に立った村山雅美さんに会うと、隊長の心構えや極地でのサバイバルの必要性などを教えてもらい、この時、村山さんに、「マコ隊(和泉さんの隊の名前)」の”頭脳”としてオブザーバーをお願いされます。

(五月女次男さんは、北極経験25回というベテランで、1978年4月26日には日大隊(日本大学山岳部)の一員として、日本人初の北極点到達を果たされています。)

伊藤周左ェ門のテントで1週間寝起きするテストに合格

そして、和泉さんは、同じく五月女さんから推薦してもらった伊藤周左ェ門さん(冒険家・植村直己さんの友人)に会うため、伊藤さんが経営する谷川岳の土樽山荘にも訪ねられます。

(土樽山荘では、植村直己さんが消息を断った後、定期的に偲ぶ会が開かれており、登山家や冒険家の情報センターのような所だったそうです)

実は、伊藤さんは、植村さんの”聖地”に女が踏み入るのは許せないと言っていた人物で、和泉さんは、そこをなんとか口説き落として、協力してもらうのが訪問の目的だったそうですが、

伊藤さんは、いきなり外にテントを立て、

暮れから正月にかけての1週間、ここで寝起きしなさい

と、言ったそうで、和泉さんは、言われた通り、テントで寝起きすることに。

そして、約束の1週間が経つと、

一緒に行ってやる

と、伊藤さんの協力を得ることができたそうですが、

実のところ、和泉さんは、テントで寝たことがなかったため、うれしくて仕方なく、テントでの生活中、テントのナイロンに雪がバンバンバン当たるすごい音に感動されるなど、内心、大喜びだったそうです(笑)

朝日新聞社会面で北極遠征が密着取材されることが決定

こうして、着々と北極行きの準備は進んでいったそうですが、新年早々、和泉さんたちが北極点を目指して準備している話をスポーツ紙が書くという情報が舞い込んできます。

そこで、和泉さんは、村山雅美さんと一緒に南極に行ったことのある朝日新聞の記者の知り合いに相談に行くと、「朝日新聞の社会面でやりましょう」ということになったそうで、

番記者(特定の取材対象者に密着して取材を行う記者)には、当時、社会部遊軍記者だったたくちゃんこと、田中拓二さんが指名され、

(田中さんは、後に、和泉さんの「マコ隊」の番記者として、現地のベースキャンプで遠征の模様を逐一伝えられます)

1985年1月13日、朝日新聞朝刊社会面トップに、

女優の和泉雅子さん 北極点踏破に挑戦 地球のテッペンに立ちたい

という見出しとともに、13段抜きの記事が掲載されたのでした。

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北極つながりで面識のなかった高倉健とも

ちなみに、ちょうど同じ頃、映画「植村直己物語」の契約の関係で、カナダ・レゾリュートからベーゼル・ジェスダーセンさんが来日し、赤坂プリンスホテルに滞在していたことから、和泉さんは、朝日新聞の記者・田中さんとカメラマンと一緒に、改めてベーゼルさんを訪ね、話を聞いたり、写真撮影をされると、翌日には、ベーゼルさんが、和泉さんの事務所に訪ねてこられていたそうですが、

そこに、映画「南極物語」で主演を務め、ベーゼルさんと親しくなっていた高倉健さんが、ベーゼルさんの来日を知り、話がしたくて和泉さんの事務所に電話をしてきたそうで、

たまたま電話に出た和泉さんは、これまで高倉さんには会ったことがなかったにもかかわらず、レゾリュートのことなど、10分くらい話せたそうで、大喜びだったそうです♪

「和泉雅子は北極点到達を日本人女性で初めて成功させていた!」に続く

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