お母さんに無理矢理バレエを習わされるも、みるみるうちに上達し、バレエが好きになった、辺見マリ(へんみ まり)さんですが、中学に入ると、バレエ教室での人間関係が原因でバレエが嫌いに・・・それでも、中学3年生の時、そのバレエのお陰で、歌手としてスカウトされます。

「辺見マリは幼少期に母親の再婚相手にとても可愛がられていた!」からの続き

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中学3年生の時に布施明が出演するイベントでスカウトされる

小学3年生の時には、将来、バレリーナになることを夢見るようになる程バレエに夢中だった辺見さんですが、中学生になると、バレエ教室での人間関係が難しくなり、どんどんバレエが嫌いになってしまったそうです。

そんな中、中学3年生の時、布施明さんのファンだった辺見さんは、京都会館で開催された、「渡辺プロダクション」のイベント「新人スターパレード」に、布施さんが出演すると聞き、「これは絶対行かなきゃ」と一人で見に行くことに。

というのも、京都会館は辺見さんがバレエの公演でしょっちゅう出演していた場所で、守衛さんたちもみんな顔見知りだったことから、辺見さんは顔パスで入ることができたのでした。

そういう訳で、辺見さんは、布施さんの楽屋にサインをもらいに訪ねて行ったそうでが、廊下をウロウロしていると、「渡辺プロダクション」の人から、

君は踊れるって聞いたけど歌は歌えないんですか?やってみる気ありません?

と、スカウトされたそうで、

辺見さんは、

もしやるんだったら、「スタジオNo.1ダンサーズ」みたいになりたいです!

と、言って快諾。

(バレエに対する情熱は冷めかけていたものの、やはり、人から認めてもらえるのはうれしかったそうです)

すると、その人は、

君は人の後ろで踊る人じゃないよ

と、言ったそうで、早くも、辺見さんのスター性を見抜いていたのでした。

(この「渡辺プロダクション」のスカウトマンは、京都会館のスタッフから辺見さんのことを聞いていたのだそうです)

両親は渋々ながら芸能界入りを賛成

こうして、すっかりその気になった辺見さんは、家に帰り、両親に相談すると、

お母さんは、

あんたは頑固だし、こうと決めたら人の言うことは聞かないからね。でも15歳だし、ちょっと早いんじゃないか。まあ、言っても聞かないんだろうから、やってみなさい

と、渋々ながら賛成してくれたそうです。

デビューに向けて歌のレッスンを開始する

その後、辺見さんは、デビューに向けて歌のレッスンを開始し、月に1回のペースでレッスンの成果を見せるため、お母さんとともに上京したそうですが、

そのかたわら、京都のナイトクラブ「ベラミ」では、お店の営業が始まる前に、歌わせてもらっていたそうですが、まだ未熟だった辺見さんは、毎回、バンドマスターにボロカスに嫌味を言われ、とても悔しい思いをしたそうです。

(ただ、今となっては、厳しく鍛えてもらったお陰で今の自分があるのだと、感謝されているそうです)

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なかなかデビューが決まらなかった

そんな辺見さんは、1967年、17歳の時、本格的に上京すると、作曲家・浜口庫之助さんの下で厳しいレッスンを積んだそうですが、

「渡辺プロダクション」の紹介で扇ひろ子さんのバックで踊ったり、事務所の先輩だった田辺靖雄さんのステージで「ヘイポーラ」を1曲だけ歌わせてもらい、あとはダンサーとして踊ったり、番組のカバーガールを務めたり、モデルやバックダンサーをしたりしつつも、一向にデビューが決まらず、葛藤の毎日だったそうです。

それでも、歌やモデルをやっている辺見さんは、モデル仲間からを妬(ねた)まれ、嫌味を言われることもあったそうで、10年以上も下積み生活をしている人もいる中で、確かに恵まれていると感じることはできたものの、

まだ若かった辺見さんにとっては、物事が思い通りに進まない状況は、本当に辛く、毎日イライラしながらデビューを待つ日々だったのだそうです。

「辺見マリが若い頃は「やめて~」の「経験」が大ヒットしていた!」に続く

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