城南大空襲(広義での東京大空襲)で、悲惨な経験をしていたことから、玉音放送を聞いて終戦と知り、内心、飛び上がるほど大喜びしたという、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さんは、その後、ひょんなことから、演劇の楽しさに目覚めたといいます。

「毒蝮三太夫は少年時代「終戦」に内心大喜びしていた!」からの続き

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終戦後は東京に戻り母親がしるこ屋を開業

城南大空襲(広義での東京大空襲)で家が焼け落ちてしまったことから、親類宅を転々とした末に、お父さんの実家がある神奈川県戸塚の汲沢(ぐみざわ)に縁故疎開していたという毒蝮さん一家ですが、

終戦後は、東京に戻ると、大工のお父さんが浅草竜泉寺に家を建て、お母さんはしるこ屋「たぬき」を営むようになったそうで、毒蝮さんは、しるこを作る時に使う、ズルチンやサッカリン(砂糖の代用品)の買い付けを手伝ったそうです。

友達の付き添いで行った舞台「鐘の鳴る丘」のオーディションに合格

そんな中、毒蝮さんは、1948年、中学1年生の時、友達が舞台「鐘の鳴る丘」のオーディションを受けに行くということで、頼まれて付き添ったそうですが、オーディション会場では、毒蝮さんも台本を読まされると、なんと合格。(友だちは落ちてしまったそうです)

毒蝮さんは、同年、この「鐘の鳴る丘」で舞台デビューしたのだそうです。

(毒蝮さんがオーディションに受かったのは、声が大きかったことと、中学生のわりに小柄で、小学生の役もできそうだから、という理由だったそうです)

劇中で本物のお米を食べるのが楽しみだった

そんな毒蝮さんは、公演のため、夜行列車に乗って、2ヶ月半ほど、全国あちこちを回ったそうですが、三食ご飯付きで、1日100円のギャラがもらえたそうで、何より、堂々と学校を休めたことがうれしかったそうです。

また、劇中、孤児の一人がおひつの中のご飯を食べるシーンがあったそうで、その役は孤児役の子供たちが順番にやることになっていたそうですが、

おひつの中のお米は本物で、その場で食べていいことになっていたことから、毒蝮さんたちは、この役が回ってくるのをとても楽しみにしていたそうです。

そして、ついに、毒蝮さんにその役が回って来たのは、四国の巡業の時だったそうですが、舞台では観に来ていたおばあさんが、「かわいそうに、これ食べなさい」と、舞台に上がってきて、おにぎりをくれたそうで、その時は、このおにぎりを食べたうえ、おひつの中のご飯も全部食べたのだそうです(笑)

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「鐘の鳴る丘」はGHQの指示で作られたラジオドラマを舞台化したものだった

ちなみに、当時は、あちこちの路上に戦争で親を失った浮浪児がいたそうで、そんな浮浪児たちが不良にならないようにと、GHQ(第二次世界大戦後に日本の占領政策に当たった連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサー元帥の指示で、復員兵と戦災孤児が力を合わせてみんなの家を建てようとする姿を描いたラジオドラマ(NHK)が作られたそうですが、

このラジオドラマの評判が良かったことから、気を良くしたGHQが舞台化して全国を巡業させたそうで、そのドラマというのが、この「鐘の鳴る丘」(1947~1950年)だったそうです。

(そのため、GHQのお墨付きということで、毒蝮さんは、堂々と学校を休めたのだそうです)

「毒蝮三太夫は映画監督になろうと日大の映画学科に進学していた!」に続く

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