やむなくプロレス中継の実況をすることになると、どんどん自分のしたかったこととかけ離れていく毎日に、やがては、アナウンサーを辞めようとまで考えたという、徳光和夫(とくみつ かずお)さんですが、プロレスの試合で初めて生のジャイアント馬場さんを見ると、衝撃を受けたといいます。

「徳光和夫は昔プロレス中継の実況が嫌でたまらなかった!」からの続き

Sponsored Link

野球からどんどん離れていっていた

歌謡番組の司会に起用されている間も、長嶋茂雄さんの一挙手一投足を実況中継することを夢見て、いつ野球中継の実況が回ってきてもいいようにと、常日頃から準備をするも、入社2年目には、プロレス担当を命じられ、泣く泣くプロレスの実況をすることになったという徳光さんですが、

当時、「日本プロレス」は年間250試合くらい組まれていたことから、徳光さんも、プロレスの実況のために、毎週のように地方に出張に行かねばならなかったそうで、

プロレスの試合開始と野球のプレーボールの時間ががっつりかぶっていたことから、野球中継は観ることができなくなってしまい、ますます、野球から離れていってしまったそうです。

アナウンサーを諦めて営業にでも回してもらおうと思い詰めていた

そんな状況に、せっかくこれまでに取材して頭の中に刻み込んだ、野球の魅力的なネタやあらゆるシーン、中継に役立つであろうと思って作り始めたライブラリーなども、全て忘れてしまうのではないかと焦りを感じ始めたそうで、

このままプロレスの担当を続けていく限り、せっかくの野球ライブラリーは錆びついていき、いつか、まったく開かなくなってしまうのではないかということも感じ、いっそのこと、アナウンサーをあきらめ、営業にでも回してもらおうかと真剣に考えるほどだったそうです。

プロレス界の乱暴さに呆然としアナウンサーを辞めることまで考えていた

さらには、プロレスは、野球と違い、実況前の取材がスムーズにできなかったそうで、取材しようとすると、足蹴りにされたり、スラングのような英語で一方的にすごい剣幕で怒鳴られたり、グラスを投げられたこともあったそうで、

(試合後の取材ではマイクをかじられたこともあったそうです)

ついには、

自分は何のためにこの仕事をしているんだろう

と、悲嘆に暮れ、アナウンサーを辞めようかと考えるほどだったそうです。

Sponsored Link

ジャイアント馬場がトップロープを跨ぐ姿を見て衝撃を受ける

そんな中、徳光さんは、1963年3月22日、「リキパレス」(力道山が作ったプロレスの常設会場で、渋谷・道玄坂の脇道を少し登ったところにあったそうです)で開催された「第5回ワールドリーグ戦前夜祭」の取材に出向き、この時、初めて、生のジャイアント馬場さんを見たそうですが、

(その「リキパレス」では、よく、シリーズの前哨戦、外国人レスラーのお披露目を目的とした興行が行われていたそうですが、この日も、海外修行を終え、凱旋帰国を果たした、馬場さんのお披露目的な試合だったそうで、金曜日だったため、テレビで生中継されたのだそうです)

馬場さんが、入場シーンで、スタスタと花道を歩いて来て、ポンッとエプロンサイドに駆け上がり、左足を軽快に蹴り上げるようにしてリングのトップロープ(リングマットから約125センチの高さ)をまたぐ姿に衝撃を受けたのだそうです。

「徳光和夫はジャイアント馬場の魅力でプロレス実況を続けられていた!」に続く

Sponsored Link