お父さんが35歳という若さで突然自殺したことで生活が困窮し、家計を支えるべく、中学卒業後の1952年に、ダンスホール「フロリダ」で歌を歌う仕事を始めた、雪村いづみ(ゆきむら いづみ)さんは、翌年の1953年4月、16歳の時には、テレサ・ブリュワーのカバー曲「想い出のワルツ」でレコードデビューすると、たちまち20万枚を売り上げる大ヒットとなります。

「雪村いづみの生い立ちは?中卒で歌手活動をスタートしていた!」からの続き

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日劇ミュージックホールのレビュー「サンマー・スキャンダル」で初舞台を踏む

1952年、中卒で、ダンスホール「フロリダ」で歌手活動を開始した雪村さんですが、ある時、関係者の目に留まり、同年5月、日劇ミュージックホールのレビュー「サンマー・スキャンダル」のオーディションを受けると、見事、煙草売りの少女役に合格したそうで、

同年7月には、「サンマー・スキャンダル」で初舞台を踏むと、8月下旬には、当時、最大の芸能プロダクションだった「木倉音楽事務所」の社長・木倉博恭さんに見出され、同プロダクションに入所したそうです。

(渡辺プロダクションの社員だった木倉さんに見出され、一緒に「木倉音楽事務所」を設立したという話も)

デビュー曲「想い出のワルツ」が大ヒット

そして、秋には、日劇「秋のおどり」に出演するほか、日劇の地下で進駐軍相手にアメリカの歌を歌うと、人気を博したそうで、

翌年の1953年4月、16歳の時には、テレサ・ブリュワーのカバー曲「想い出のワルツ」でレコードデビューすると、たちまち20万枚を売り上げる大ヒット。


想い出のワルツ

その後も、雪村さんは、

1953年「はるかなる山の呼び声」
1954年「青いカナリヤ」
1954年「オウ・マイ・パパ」
1955年「マンボ・イタリアノ」
1955年「チャチャチャは素晴らしい」

と、次々とヒットを飛ばし、一躍人気歌手となったのでした。

「三人娘(美空ひばり、江利チエミ)」で人気

そんな雪村さんは、当時の人気少女歌手であった、江利チエミさん、美空ひばりさんとともに、「三人娘」と呼ばれ、人気を博すと、

歌手活動の傍ら、1953年には、「青春三羽烏」で映画デビュー。

その後も、

1954年「娘十六ジャズ祭り」
     「東京シンデレラ娘」
1955年「ジャズ娘乾杯」
     「歌まつり満月狸合戦」

など、立て続けに音楽映画で主演を務めると、

「ジャズ娘乾杯」では、「三人娘」のうちの一人、江利チエミさんと、「歌まつり満月狸合戦」では、同じく美空ひばりさんと、それぞれ初共演を果たしています。


「ジャズ娘乾杯」より。(左から)寿美花代さん、雪村さん、江利チエミさん、朝丘雪路さん。

「三人娘(美空ひばり、江利チエミ)」で共演した映画「ジャンケン娘」が大ヒット

そして、1955年には、映画「ジャンケン娘」で、江利さん、美空さんと共に3人で主演を務めると、映画は空前の大ヒット。


「ジャンケン娘」より。(左から)美空ひばりさん、雪村さん、江利チエミさん。

その後も、

1956年「ロマンス娘
1957年「大当り三色娘
1964年「ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば

と、3人そろって出演し、話題を呼んだのでした。

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江利チエミ、美空ひばりとの思い出

ちなみに、雪村さんは、江利さん、美空さん、との思い出を、

三人娘は、みんな同じ(19)37年生まれ。チエミちゃんが1月、私が3月、そしてひばりちゃんが5月生まれでした。あの2人に出会うことができて本当に良かったと思っているの。三人娘の時代があったから、歌い続けることができるのね

私のデビュー曲『想い出のワルツ』はチエミちゃんが歌いたかった曲なの。アメリカから帰国したチエミちゃんが『どんな子が歌うの』と私を見たらスリップが出てて・・・

シミチョロだったから一気にライバル意識がなくなったって言ってたわ。お嬢(ひばりさん)と初めて会ったのは江東劇場だったかしら。大スターだったけど笑い上戸で緊張も吹き飛びました。もう二人はいないけど死んだって思えない。私の中では生きているの

やっぱりチエミちゃんとひばりさんがいなかったら、いまの私はいないわよ。あの2人のためにも、頑張って歌わなきゃね

と、語っています。

「雪村いづみが若い頃はアメリカでも「ホリデイインジャパン」で人気を博していた!」に続く

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